前回は、初期衝動によって作品の中に子供の落書きのような本質を残すことが大切と書きました。
では、本当の子供の落書きとどこが決定的に違うのでしょうか。
それは、音楽を作ったり奏でたりする時に、その楽曲によって、
「音楽を通して何かを伝えたいのか?」
それとも、
「音楽そのものを伝えたいのか?」
をまずハッキリさせる、ということですね。
音楽「で」伝えたいのか?
音楽「を」伝えたいのか?
ここをハッキリさせないと、焦点の定まらないものになってしまいます。
焦点が定まらなくては、どんなに上手なデコレーションが施してあったとしても、実質は子供の落書きと同じレベルになってしまいます。
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「音楽そのものを伝えたい」場合は、まさに文字通り「音を楽しみ、音を楽しませる」という点が大切ですね。
政治信条、宗教的要素、社会問題、人間関係とはまったく無縁の、ただただ純粋な音世界。
ストーリー性などの標題は副次的に感じても良いけれど、あくまでも絶対音楽の世界。
音楽が数学や建築に似ているのは、この絶対音楽の世界があるからかも知れませんね。
この純粋な音世界を作るのに、作者が人間的にどういう人なのか、
良い人なのか、
ろくでなしなのか、
礼儀正しい人なのか、
食生活が乱れているのか、
性生活が乱れているのか、
病気なのか、
こういうのは一切関係ありませんね。
もうただただ純粋な音楽の世界が良ければ、作者がどうあろうとも無関係ということです。
作者が人間である必要すらないかも知れません。
コンピューターでも偶然でも不特定多数でも良いのかも知れません。
人柄は良いけれど腕がイマイチな建築家にマイホームを頼まないのと同じで、音世界が良ければ人間性は度外視しても良いと思っています。
そのかわり、耳の鋭敏さ、研ぎ澄まされた感覚、世界の構築能力、イメージ力、色彩感覚、自分自身の能力を総動員して、徹底的に音世界だけで伝え尽くさないといけません。
陳腐な音世界しか提示できないのであれば、作らない方がマシです。
「音楽そのものを伝えたい場合」は人間性よりも能力を総動員することが大切なのですね。
その一方で、「音楽を通して何かを伝えたい場合」には、人間性を総動員した自己批判と吟味が必要なのです。
(つづく)