集中力によってパフォーマンスに天地の差が出ることを実感しています。
「集中力」と簡単に言ってしまいましたが、インプットとアウトプットとで「集中力」に対してまったく逆の姿勢をとっている人は意外に多いです。
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インプット時の集中力欠如は分かりやすいです。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
味わっているようで味わっていない。
僕自身も結構(と言うかしょっちゅう)やらかしますが、インプットの時に集中力が欠けることは割と誰もが自覚できます。
「あれ?途中まで読んだはずの本、読んだはずなのに内容あんまり憶えてないなあ」
「美味しいと評判のお店に行ったのに、おしゃべりに夢中でイマイチ味を憶えてないなあ」
という、インプットの集中力で反省する経験は結構ありがちです。
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でも、その逆はどうでしょう?
話しているようで話していない。
書いているようで書いていない。
歌っているようで歌っていない。
アウトプット時の集中力に欠けているかどうか?
そんなこと、普段から意識しているでしょうか?
「あれ?この前アイツに話した話、きちんと話せたっけなあ?」
「この前書いた文章、集中して書けたっけなあ?」
というアウトプットでの集中力の欠如に関しては、なぜか普通はそんなに深く考えないんですよね。
そういう時はたいてい、
「アイツに話した話、ちゃんと理解したのかなあ?」
「この前書いた文章、ホントに分かってくれてるのかなあ?」
「世間にはリテラシーの低いヤツが多いからなあ」
と、自分以外に原因を求めがちになります。
インプットの時には殊勝な気持ちで反省できていた自分が、なぜかアウトプットのミスの場合に限っては他人のせいにしてしまうのです。
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インプットがイマイチな時に、最初に気づくのは自分自身。
でも、アウトプットの時は少し様相が違う。アウトプットがイマイチな時に最初に気づくのは、自分ではなくまず相手なのですね。
逆の立場になってみればすぐに分かります。
他人の話で、
「あれ?イマイチよくワカラン」
と思ったとしても、それを正直に、
「オマエいま集中して話せてる?」
なんてわざわざ訊いたりはしないですよね。
単に聞き流せば良いだけの話ですから。
つまり、受け手側は送り手の集中力のことなんか教えてくれないし、そもそも考えてもいないのです。
「話のつまらない人」
「文章がヘタな人」
という、アウトプット結果に対する評価しか残りません。
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もしも自分からのアウトプットコンテンツ(話や文章や音楽や料理、何でも)が他人に伝わりきっていない時には、自分の才能・表現力・頭の良さ・結果の完成度などを疑う以前に、まずは、
「アウトプット時の自分の集中力のなさ」
を疑うことが、表現力を向上させる上で大切なことだと感じます。
ちょっと何かが伝わらなかったくらいで「自分には才能が無いんだ」「世間は分かってくれないんだ」などと落ち込むなんてのは、他人依存症の甘えた態度なのです。