強気は根拠がなくて良い。
弱気は根拠があれば良い。
<「せいにしない」>
誰にでも一日数度は、何かしら気になることが起きます。
自分はまったく悪くなくても、ふとしたことで悪いことは降りかかります。
そのとき、「何かのせい」にすると確かに気が楽になります。
そう思うことで精神的に良い方向に働くこともあります。
ここで、ふと思うのです。
「何かのせい」にすることが、目先の精神安定剤だけに終わっていないか。
ヘタに目先だけを明るくしてしまったばかりに、遠くの道を暗くしてしまっていないか。
—
起こったできごとを「何かのせい」にすることは、逆に言えば「自分の問題ではない」と思い込むこと。
つまり「自分には関係ない」という態度を決め込むことですね。
でも、逆に良いできごとだった場合にはなぜか「何かのおかげではなく、自分のおかげ」と思い込んでしまうことも多いです。
悪いことは「何かのせい」
良いことは「自分のおかげ」
人間なんて都合の良いもので、無意識にこういう風に思い込んで精神のバランスをとっていたりします。
それはそれで人情でもありますが、そこには「目先だけが良ければ」「自分だけが良ければ」という面倒な自尊心が顔を覗かせています。
きっかけは本当に小さなことでも、逐一「何かのせい」にし続けることが「目先の利益」や「自分だけの利益」の温床になっていれば、いつかは自分にしっぺ返しがやってきます。
この国だって、「目先の利益」「自分だけの利益」を追い求めた大人が多くなり過ぎた結果、こんな体たらくになっちゃってますし。
「何かのせい」にするということが、ひいては、大きな時間の流れに逆らっているような、宇宙の流れにうまく乗っていないような、そんな不自然な感覚の萌芽を生み出しています。
—
試しに、どんなに些細なことでも「何かのせい」にせず生活してみようかと思います。
他人のせいにしない。
時間のせいにしない。
環境のせいにしない。
天気のせいにしない。
年齢のせいにしない。
身体のせいにしない。
人間関係のせいにしない。
タイミングの悪さのせいにしない。
順番のせいにしない。
渋滞のせいにしない。
信号のせいにしない。
電車トラブルのせいにしない。
売り切れのせいにしない。
敵の策略のせいにしない。
味方のミスのせいにしない。
ちょっとした言葉のあやのせいにしない。
権力者のせいにしない。
政治のせいにしない。
時代のせいにしない。
そしてもちろん
自分のせいにもしない。
—
「せいにしない」というのはつまり、
「そのまま受け容れる」
ということ。
もしかしたらこんなに難しいことはないのかも知れません。
それでも、一度トライしてみれば、今までの人生には無かった何か別の感覚を得られるかも知れません。
どこまでできるか分かりませんが、意識するだけでもかなり違った世界が見えそうで、怖さもある反面、少し楽しみでもあります。
<我慢と粘り>
僕は「我慢」があまり好きではありません。
というか大キライです。
好きなことをしない「我慢」。
嫌いなことをする「我慢」。
自分に責任さえ持てれば、こんな我慢は全くしなくても良いと思っています。
その一方で「粘り」はすごく大切だと思っています。
好きなことで壁を乗り越えるための「粘り」。
嫌いなことをしないために払う「粘り」。
一見すると「我慢」に近いこの「粘り」という行為も、こうして並べて書いてみれば、その目的がまったく違うことに気づきます。
「我慢」の向こう側には「自己犠牲」が存在します。
「粘り」の向こう側には「生産性」が存在します。
「我慢などまったくしない」と言い切るには、なかなかの勇気が要ります。
我慢しない分、自分の役割にとことん粘る姿勢を貫けば良いと思っています。
<メッセージソング>
単なる感情の吐露だけのメッセージソング、
政治的信条や賛成反対を叫ぶばかりの単純な音楽、
それならば、時事川柳や床屋政談の方がまだマシだ。
直接的なメッセージを伝えたいなら、わざわざメロディに乗せなくとも、ただ声や文章で叫べば良い。
それでもどうしてもメッセージを訴えたいなら、音楽として語感を丁寧に紡ぐことが大切。
「メロディ・詞・歌声が同時に耳に入って来た時の心地よさ」
をしっかり追求してこそ、歌詞の内容に感情移入できる。
内容・音感・語感が渾然一体となってはじめて、「言葉」は「歌詞」へと昇華される。
頭で考えさせるばかりで聴感をないがしろにするメッセージソングは、両耳に失礼だ。
<新しさ>
「送り手の未熟」と「受け手の誤解」
この2つだけで、新しさが生まれてしまうこともある。
新しさなんて案外そんなものだったりするから、
「新しいものを作ろう」
と力む必要なんてない。
むしろ、力むことで強気から弱気に変わってしまうこともある。
ものを作る上での大敵は「新しさ」よりも「弱気」に潜んでいる。
<無秩序に浸ってみる>
国や社会の秩序が乱れていて愕然とするできごとが続いています。
震災や過酷事故から学ぼうとしない権力機構。
平和に戻ったという幻想を繰り返すメディア。
不安なことを考えたがらず、面倒くさがりな市民。
結局何も変わらなかったという憤りが、誰の胸にもあるはず。
—
秩序、常識、習慣、通念、ルール、一般論、合意形成。
これらを皆が共有することで、普段はそれらをまったく意識せずに安心して生活できるというメリットがあります。
その中でもっとも強制力のあるものが法律。
法治国家は法律によって秩序を保っています。
その秩序が脅かされれば、その社会は根底から揺らぎます。
昨年から今年にかけて「緊急事態だから」という御旗のもと、さまざまな超法規的行動が跋扈しました。
電力会社の態度などでも分かるとおり、今や法律なんてあってないようなものにすら感じます。
ここであえて考えてみます。
「乱れたはずの秩序は、もともと正しかったのか?」
「これまでの秩序を乱さないことが、なぜ大切なのか?」
「そもそも古い秩序に戻ることが、良いことなのか?」
—
今の社会秩序になってから67年。
たったそれだけの時間で作られた秩序。
どんな秩序も永遠であるはずがない。
大きく変化することだってある。
たまたま僕らが生きている今までは、この国の秩序が変化しなかっただけ。
視点を変えてみれば、
「秩序が乱れた」のではなく、
「これまでの秩序が変わりつつある」のです。
—
さらに突っ込んで、僕の今の意識は、
無秩序に浸ってみる。
のひとことに尽きています。
無秩序に浸ってみて、一度自分の心を宙ぶらりんにしてみる。
どこにも繋がれていない不安感はものすごいです。
これまでの自分を否定する、という恐怖感もものすごいです。
ただ、そこから始めれば、新たな秩序を自分なりに探せるはずです。
—
自分が疑ったこともない、無意識下の常識や秩序を捨ててみる。
それが必要な時代が、もう始まりました。
だからこそ、自分なりの秩序を再構築し、これまでの自分自身とは違う常識で生きていく。
この覚悟はいま絶対に必要だと感じています。
<ムダな努力の回避>
才能も技術も、それに伴う努力や訓練も、すべて単なる
「癖」
だと考えれば、見当違いでムダな努力をせずに済む。
癖になるようなら自分に向いているし、
癖にならないようなら向いていない。
自分がやるべきことの基準が分かりやすくなる。
<なるべく単純に>
単純明快なことを「短絡的」「軽率」だと勘違いしてしまうと、
問題が複雑になる。
「短絡的」「軽率」と違って、
「単純」は複雑な問題を丁寧に解決した向こうにある。
単純なことは単純に。
複雑なことも単純に。
悩みも単純に。
結論も単純に。
アイデアも単純に。
コンセプトも単純に。
アウトプットも単純に。
誰の頭の中も複雑な感情でいっぱいなのだから、
せめて自分からの発信は単純にする。
<どこを向いても良い>
前を向けば道がある。
上を向けば空がある。
横を向けば仲間がいる。
後ろを向けば守る人がいる。
疲れて下を向いたって草花が咲いている。
どこを向いても人生は素晴らしい。
<多数決の毒>
ものを創り出す前にまずどうしてもやらないといけないのは、
「多数決の毒を極力排除する」
ということ。
幼いころから人生のさまざまな場面での選択肢を多数決で選んできた、またそう学んできた僕たちにとって、大人になっても問題意識なく多数決の意義を信じてしまっていることが多い。
それらすべてを強い注意力で洗い出して、制作の前にすべて捨てていく。
これは「少数派を選ぶ」ということではない。
少数派を選ぶ意識は、裏を返せば多数決を気にしているということ。
多数でも少数でもなく、自分の思うとおりに事を進める意思を取り戻してから、ようやく制作にとりかかる。
<ものを作る時人の忍耐力>
ものを作る時人の忍耐力は、
アイデアを生み出す時でもない。
他人からの厳しい意見に耐える時でもない。
弛みなく生み続ける時でもない。
言いたいことのすべてを口に出さない忍耐力こそが必要。
<認められるという試練>
「他人に認められた」時は次のステップの大きな原動力になるけれど、
それと同時に「また同じように認められたい」とも思ってしまいがち。
「他人に認められたい」という感情を原動力にしてはいけない。
他人の評価に頼れば自分不在の活動になり、自分不在の活動には何の意味も無い。
他人に認められた時こそ、自分自身をフラットに保つ試練だと肝に銘じる時。
<まやかしの言葉>
新しさ。
個性。
創造力。
これらの言葉は自分自身が意識するものだと間違えがちだが、実は他人が評価するための言葉。
しかも他人がこの言葉を使う時は、社会的成功があっての結果論が多い。
つまり、これらの言葉は結局まやかしに過ぎない。
こんな言葉を気にする時間があるなら、その分基礎の反復練習に充てれば良い。
新しさよりも個性よりも創造力よりも大切なのは、
「美意識を形にすること」
だけ。
<音楽家の生涯>
妥協せずに仕事をするばかりに、
周囲との軋轢のせいで大きな成功もなく、
有力者の金魚の糞にならないばかりに、
可愛げがないと評されて大した抜擢もなく、
仕事に没頭し異業種との接点を持たないばかりに、
社会に大きなインパクトを与えることもなく、
不遇のうちに死ねば、
まもなく自分の名前も作品とともに忘れ去られていく。
妥協しない人生も悪くない。
<「何を」でなく「どれだけ」>
信念の強度は「何を信じるか」ではなく「どれだけ信じるか」に拠る。
名言や自己啓発の類に振り回されている時は、信じるものごとの種類が多すぎるのかも知れない。
<作品の鑑賞>
その分野での初心者は、あえて事前情報に触れずに作品を味わう姿勢が大切。
そうすることで未熟な先入観を回避できる。
中級者になると、その分野ですでに多くの情報を知ってしまっている。
なので、先入観や事前情報に囚われずに作品を味わう柔軟性が大切。
そうすることで視野の狭さを克服できる。
中級者を過ぎると、自分自身の作品にも生き方にも信念が確立している。
なので、先入観や事前情報を踏まえた上で作品を味わう懐の深さが大切。
そうすることで初心にかえることができる。
<呼吸>
何を始めるにもまずは自分の呼吸をコントロールする。
自分の呼吸をコントロールできずに他の何物をもコントロールできない。
呼吸のコントロールの難しさを実際に感じとる。
いかに呼吸のコントロールが難しいかを知ることで、他の何物のコントロールがさらに難しいことを知る。
呼吸を意識することは、コントロールできるものとできないもののを見分けをつける力を養う。
そして、コントロールできないものを見限る気力を養う。
<謹賀新年2012>
あけましておめでとうございます。
旧年中は皆さまのお力で、本当に充実した音楽生活を送ることができました。
本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。
今年の僕の目標は、色々あるのですが、何といっても、
「遊びごころ。とんち。」
に尽きます。
楽しいことも、根気のいることも、すべてに遊びごころで挑む。
ここ10年ほどで、この国から急激に遊びごころが失われた気がしています。
そして昨年でとどめを刺されたように、不謹慎という名の言葉狩り。
ヒステリーがこの国を覆ってしまいました。
この一年は、ヒステリックに反応してしまう内容でさえも、いったん遊びごころを持った視点で捉え直してみる習慣をつけようと思います。
その態度を貫けば、建設的かつ、とんちの利いたアイデアが出るはずです。
遊びごころ。
とんち。
精神がゆったりとする言葉だなあと思っています。