どんなことでも、自分の身体からの声を正直に聞けば本質が分かる。
情報社会では、外からの情報で自分が動かされやすい。
外からの情報ではなく、自分の中からの情報を大切にする。
<情報は内から>
<もの分かり>
他人の意見に対して、もの分かり良く行動する必要はない。
自分の思いに対してこそ、もの分かり良く行動することが大切。
もの分かりの良さは、他人の意見の具体化のためではなく、自分の行動を絞り込むために駆使する。
<音楽と言葉>
音楽は、言葉にできない感情を紡いでいる。
3分の楽曲を言葉にしようとすれば少なくとも3日はかかるし、しかも結局は語りつくせない。
ましてや名曲なぞを語ろうとすれば何百年もかかるし、これも結局は語りつくせない。
にもかかわらず、聴き手はその感動を何とか言葉で表現しようとする。
聴き手のその思いが、何百年前の音楽を「古典」として語りつぐ原動力になる。
「音楽は、言葉では言えないものを作る」
というのは、実は作り手の心理的都合にすぎない。
「音楽は、聴き手の言葉によっても大きく伝播する」
という、多数の作り手が見落としている当然の事実を肝に命じなければならない。
<原則非同期>
自分の生き方、考え方を、他の何かと同期させない。
他人と同期させない。
環境と同期させない。
過去と同期させない。
常識と同期させない。
世間と同期させない。
ましてや国家とは何をか言わんや。
<嫌いになってから>
やらなければ恐れる。
やれば好きになる。
やり過ぎると嫌いになる。
それでも続けてようやく血肉になる。
やり過ぎで止めれば嫌いのまま終わる。
だから、嫌いになった時にこそ続ける。
嫌いになってからが本当の始まり。
好きでも嫌いでもなくなって、はじめて自分の生き方になる。
<やる気>
何か物事がうまく進まない時には必ず、誰か「やる気のない人」がいる。
それは自分かも知れないし、仲間かも知れない。
物事がうまく進まない時にはまず、
・自分のやる気を、自分自身正直に問い正す。
・仲間のやる気を、客観的に見つめてみる。
・やる気のない人(自分または仲間)をその任から離し、別の任に就かせる(または就く)。
「やる気がない」と「能力がない」は全く別次元の話にもかかわらず、「結果が出ない」という意味では、傍から同じように見えてしまう。
「やる気がない」というのは、実は罪ではない。
「やる気のでるところ」に移動すれば良いだけ。
<大きなことを考えている時>
自分自身のキャパから離れた大きなこと、
・大きな国際問題
・日本の政治の行く末
・資本主義社会の限界
・1000年後の地球環境
などを考えている時は、
(1)夢と希望にあふれている
(2)目先の面倒なことから逃げたがっている
のどちらか。
しかも、たいてい(2)の方が多い。
—
そんな時は、
・今やるべきことを全部やって、
・トイレに行って、
・翌朝までぐっすり寝てみる。
ほとんどの場合、翌朝にはきちんと自分自身の課題に向き合えるようになっている。
—
大きなことを考えるというのは、小さなことから逃避する手段にもなり得る。
自分自身の問題を解決できない人間に、人間社会の問題を解決できる訳がないと、普段から肝に銘じておく。
【アウトプットの集中力】
集中力によってパフォーマンスに天地の差が出ることを実感しています。
「集中力」と簡単に言ってしまいましたが、インプットとアウトプットとで「集中力」に対してまったく逆の姿勢をとっている人は意外に多いです。
—
インプット時の集中力欠如は分かりやすいです。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
味わっているようで味わっていない。
僕自身も結構(と言うかしょっちゅう)やらかしますが、インプットの時に集中力が欠けることは割と誰もが自覚できます。
「あれ?途中まで読んだはずの本、読んだはずなのに内容あんまり憶えてないなあ」
「美味しいと評判のお店に行ったのに、おしゃべりに夢中でイマイチ味を憶えてないなあ」
という、インプットの集中力で反省する経験は結構ありがちです。
—
でも、その逆はどうでしょう?
話しているようで話していない。
書いているようで書いていない。
歌っているようで歌っていない。
アウトプット時の集中力に欠けているかどうか?
そんなこと、普段から意識しているでしょうか?
「あれ?この前アイツに話した話、きちんと話せたっけなあ?」
「この前書いた文章、集中して書けたっけなあ?」
というアウトプットでの集中力の欠如に関しては、なぜか普通はそんなに深く考えないんですよね。
そういう時はたいてい、
「アイツに話した話、ちゃんと理解したのかなあ?」
「この前書いた文章、ホントに分かってくれてるのかなあ?」
「世間にはリテラシーの低いヤツが多いからなあ」
と、自分以外に原因を求めがちになります。
インプットの時には殊勝な気持ちで反省できていた自分が、なぜかアウトプットのミスの場合に限っては他人のせいにしてしまうのです。
—
インプットがイマイチな時に、最初に気づくのは自分自身。
でも、アウトプットの時は少し様相が違う。アウトプットがイマイチな時に最初に気づくのは、自分ではなくまず相手なのですね。
逆の立場になってみればすぐに分かります。
他人の話で、
「あれ?イマイチよくワカラン」
と思ったとしても、それを正直に、
「オマエいま集中して話せてる?」
なんてわざわざ訊いたりはしないですよね。
単に聞き流せば良いだけの話ですから。
つまり、受け手側は送り手の集中力のことなんか教えてくれないし、そもそも考えてもいないのです。
「話のつまらない人」
「文章がヘタな人」
という、アウトプット結果に対する評価しか残りません。
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もしも自分からのアウトプットコンテンツ(話や文章や音楽や料理、何でも)が他人に伝わりきっていない時には、自分の才能・表現力・頭の良さ・結果の完成度などを疑う以前に、まずは、
「アウトプット時の自分の集中力のなさ」
を疑うことが、表現力を向上させる上で大切なことだと感じます。
ちょっと何かが伝わらなかったくらいで「自分には才能が無いんだ」「世間は分かってくれないんだ」などと落ち込むなんてのは、他人依存症の甘えた態度なのです。
<鮮度の選択>
気持ちの鮮度、アイデアの鮮度はバカにできない。
ただし、情報の鮮度を追求するのは非常に危険。
流行や他人の目や世間の空気ばかりを気にするようになると、もっとも大切な自分自身の鮮度を失う。
流行を追えば流行の老廃物になる。
追うべきは自分自身の気持ちの鮮度だけ。
<やりたいこととできること>
「やりたいことをやる」
を最優先させると同時に、
「やりたくないことをやらない」
も大切にする。
そこには
「できるかどうか?」
の検討はまったく必要ない。
「できること」
を優先させてしまうと、人生は、
「やりたくないけどできること」
で埋まってしまう。