Column

<結果とは>

「結果を出す」ことと「数字を出す」ことがイコールに思っている人が大多数を占めている。

僕が思う「結果を出す」というのは、もっと単純に、
「自分も他人も幸せな気分になること」
だと思っている。

それを甘いと感じる人も大多数を占めている。
「ビジネスの世界では数字は当然だ」と言う。
ビジネスの世界って何だろう?
ビジネスの世界という場所に24時間365日いるのだろうか?

少なくとも僕は人間の世界に生きていると思っている。
だから「結果」とは「数字」でなく「幸せの提供度」なのだと思っている。

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<朗読アプリ案>

書籍や雑誌を、
→PDF化
→OCRで文字認識
→VOCALOIDで音声変換
→MP3でオーディオブック化。

こんなアプリがあればジョギング中に読みたい本が聞ける。

「有名俳優や声優によるVOCALOID朗読アプリ」
みたいなバリエーションがあればいいなあ。

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<機嫌という仕事>

機嫌の良い状態の作品は、明るいオーラも暗いオーラも放ちやすい。
機嫌の悪い状態の作品は、明るいオーラを放ちにくい。

ということは、「機嫌の良い状態」を保つことが作品の幅を広げる重要な仕事のひとつだと言える。
「ポジティブ思考」とか「人生を明るく」とかそういう生活のコツの類ではなく、


「機嫌を良くする」ことは、ものを作る人にとって重要な仕事のひとつだ


と捉える。

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【「深読み」と「無関心」】

僕は音楽を「言葉のない会話」と捉えています。

なので、会話の時と同じように、どの楽曲でも、
「もしも誰かが深読みしようとした時にも、ズンズンと深みにハマれる」
ように、幾重にも意図と意匠を編み込んでいます。


でも、切ないことに時代は、
「1曲の深読み」
よりも、
「多くの曲のプレイリスト」
が主流で、1曲の持つ重みが軽くなりました。

もちろんそれ自体は悪いことでなく、僕はむしろ良いことと捉えています。

 アルバム単位でなく1曲単位でダウンロードできる。
 携帯プレイヤーで何千何万と曲を持ち歩ける。
 自分が思ってもみなかったシャッフルを楽しめる。

10年前には考えられなかった音楽の楽しみ方が広がりました。

音楽はコミュニケーションですから、作り手の意図と聴き手の感じ方が必ずしも合ってなくて良いと思います。
ただ、これだけの音楽の洪水の時代の中で、

 「聴き手が作り手の意図を知る機会」が薄らいでいる

ということに、コミュニケーション手段としての不備を感じるのも正直なところです。



これまでに作った幾つかの楽曲では、幸運にも、聴き手が僕の意図までを深読みしてくれる瞬間がありました。
そういう時には、

「自分は、音楽家としてこの世に存在していても良いのだ!」

と身体全体でビリビリ感じ、筆舌に尽くしがたいほどの至福を感じます。


もちろんその逆もあります。

会心の出来映えなのに、意図はおろか楽曲そのものを聴いてもらえず、相手にもされない瞬間。
「相手にされない」というのは、「ケナされる」よりも段違いに切ない。

ケナされるというのは、逆に言えば「聴いてもらえた」ということだから、そこに関心そのものは存在するし、コミュニケーションが成立しています。
でも「相手にされない」というのは無視・無関心だから、そこにコミュニケーションは存在しません。

これほど切ないことはないのだけれど、実は曲を作っているとそういう場面に何度も何度も出くわします。

ライヴ演奏であれば、ほとんどの場合は誰かしら(スタッフかも知れないし、オーディエンスかも知れないし、バンドメンバーかも知れない)が聴いています。
聞こえているだけという状態かも知れないけれど、聞いている人がいる場合が大半です。

けれど、作曲に限っては、聴き手がゼロ、ということがあり得るのです。
発表するつもりで作って、ネットにもアップしたけれど、視聴数ゼロ。という場合だって決して珍しくはないのです。
しかもそういう切ない機会というのは、想像よりもはるかに多いのです。


音楽に限らず、作品を作るというのは「他人の無関心」という強烈な孤独感に耐える作業なのかも知れません。
コミュニケーションは、どこからか「無関心」というガン細胞が入り込んだ瞬間、死滅します。



僕はプロアマ問わず、他人の曲はなるべく聴くようにしています。
中には「なんだこりゃ?」みたいな楽曲もありますが、それでも「なんだこりゃ?」という感想を持つようにしています。
「作った本人が一番切ないのは聴いてもくれないことだ」と肌で知っているからかも知れません。

同じように、人の話もなるべく聞くようにしています。
僕は忘れっぽいので10分後には聞いた話を忘れているかも知れないけれど(実際多いですw)、コミュニケーションの基本は「話すこと」よりも「聞くこと」と感じているからかも知れません。

2件のコメント

<選択肢を多角化する>

白黒はっきりと結論が得られない場合、
「白と黒のあいだのグレー」
という安易な妥協点を選択する前に、まったく別の視点から、

「赤・黄色・青」

という選択肢を探してみる。
モノクロで考えていたことをカラーで考えてみるだけで簡単に解決することも多い。

二択は敵と味方を生むが、三択以上は価値観の尊重を生む。

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【「思いつき」のシェイプアップ】

他人のアイデアを「単なる思いつき」と笑う人は、
「素晴らしい結果を生む最初の一歩は思いつきだ」
ということを忘れているのかもしれません。

偉大な業績はたいてい思いつきから始まっていますから、その大切な種を一笑に付して終わらせてしまう人は、もしかすると思いつきの素晴らしさを味わったことがないのかも知れません。



では逆に、自分の思いつきを「単なる思いつき」と済まされてしまう自分サイドにはまったく問題は無かったのでしょうか?
自分の思いつきを他人に伝えることに充分な工夫をしていたと言えたのでしょうか?
その検証をしなければフェアではないですね。

なぜ、思いつきは「単なる思いつき」だけで片づけられてしまうのでしょうか?
それは、思いつきを自分なりに整理できておらず、ポイントを絞れていないからです。
自分のなかでポイント整理できていないものは、絶対に他人には伝わりません。



では、ポイントを絞るにはどうしたら良いのでしょうか?
思いついたことを、とにかく極限までシェイプアップさせることが大切です。
具体的には、


   自分の思いつきを「10文字前後の一言」まで絞り込む。


という作業が最も大切です。
まだブヨブヨと脂肪がついている思いつきを、体脂肪率1ケタ台の「細マッチョ」にまでシェイプアップさせるのです。

絞り込んだその「10文字前後の一言」だけで他人に本質が伝われば、それはもう「単なる思いつき」ではなく「素晴らしいアイデアの種」に昇華されます。
何よりも良い効果は、絞り込む過程でポイントが自分なりに整理され、自分の変なこだわりも文字とともに捨てていける、という点です。

逆に、10文字前後にまで絞れない思いつきは、焦点が定まっていないか、面白みや新鮮味に欠けるかで、結局のところ「単なる思いつき」程度のものだったということ。

キャッチコピーと似ていますが、キャッチコピーほどキャッチーさやインパクトを追い求める必要はありません。
キャッチーさよりも、その一言にアイデアの本質を凝縮させようとする姿勢の方が大切です。



何かを思いついた時に、とにかく10文字前後の一言にシェイプアップさせるクセをつけると、
「発想を整理する習慣」
「言葉を厳選する習慣」
が身につきますし、何より「思いつき」の精度が飛躍的に高まります。

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<その時の「感動した」は本当か?>

自分の感動を疑うことって、実はあまりないと思う。
でも、その時の「感動した」は果たして本当なのか?

 単なる先入観ではないのか?
 前評判に踊らされていないか?
 著名人だからではないのか?
 劣等感からの逃避に都合が良いからではないのか?
 大多数の意見に飲まれていないか?
 好きな人が推しているからではないのか?

自分の感動さえ疑うことを「野暮」だと感じるかも知れない。
「野暮」だと感じる時は、自分の現状という殻を抜け出す必要がないと思っている時。
もし自分の殻を破りたければ、野暮であろうが何であろうが、自分の感動する心そのものさえ見直す覚悟がいる。

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<効率的な練習の善し悪し>

効率を考えて練習をしていると、知らぬ間に脳も身体も「節約モード」になってしまう時がある。

「メニューの効率」と「身体の使い方の効率」というのは、明確に分離して考えなければいけない。
でないと、練習メニューを効率的にしようとするがあまり、練習そのものでも効率的にこなしてしまい、身体を限界まで痛めつける試みを怖がったり、エネルギーを最大に発散させたりすることを止めてしまう。

演奏では、エネルギーを最大級に発散させることで聴き手とのエネルギーの交流が生まれ、その交流が全体の感動を呼び起こす。

「脳や身体の効率を度外視し、ストッパーを外す」

という練習も、効率的な練習と同じくらい必要。

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<「道」と「教」>

「道」は自分の鍛錬をきっかけにする。
「教」は他人の導きをきっかけにする。

「道」には明確なゴールはない。
「教」には明確なゴールが示されている。

「道」はプロセスそのものに価値を求める。
「教」は悟りそのものに価値を求める。

決定的な相違点ばかりだけれど、ひとつ共通点がある。

「道」も「教」も、本来は自主的なものだということ。

自分で考え、自分で動き、自分で悩み抜いた時に、はじめて助けになるもの。
「癒し」だとか、
「心のスキマ」だとか、
「マニュアル」だとか、
「○○日でマスター」だとか、
そういう類とは真逆にあるものが、本来の「道」であり「教」だと思う。

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<意思決定+時間軸>

楽曲は意思決定の積み重ねだから、

「なぜその音を選んだのか?」

を、作曲者は一音一音すべてに説明できる。
けれど、それをしない。
なぜなら、一音一音は説明できても、それらの「繋がり」は楽曲を聴く以外に感じてもらえる方法はないから。

音楽とは、意思決定を時間軸で表現するもの。

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<破壊の前提条件>

「何かを破壊して新しいことを創造してやろう」という心意気は良いが、その前にまず日々の鍛錬や勉強でその「何か」とは何か?を知らなければ、創造はおろか破壊さえできない。

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<技術>

技術が自由自在になった時から本当の表現が始まる。

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【1を聞いて10を知ってからのひと手間】

「1を聞いて10を知る」人は、たいてい気が利く人と捉えられていますよね。何かとっても有能の人の象徴のような。
でも、僕はあまりそう思わないのです。

「1しか言ってないのに10も分かった気になる」ってことは、残りの9はその人の推測ってこと。
もちろんその人の豊富な経験に基づいた推測だとしても、こちらの真意がほとんど伝わっていない可能性もある。
つまり「予断の多い人」だと思えるのです。

かなり信用のおける仲間同士だとしても、これはコミュニケーションとして危険なことだなあ、と。

僕も何度か「知ったつもり」と「知られたつもり」で大失敗したことがあります。
知ったつもりになっているぶん、自分と相手との「思い込みの差」に気づかないである程度まで話が進んじゃうんですよね。

それで実際に物事が動いた時に、
  「あれ?こんなはずじゃなかったよね?」
  「え?だってそう言ったじゃん」
よくある、悪夢のような、夢なら醒めてほしいような、コミュニケーション不足によるトラブルに陥るのですね。



分かった気になってしまうってのは、実はすごく損です。
だって、他人が10教えてくれようとしているのに、1だけで終わってしまうのですから。
残りの9の中に、これまで自分が知らなかったことが入っていたかも知れないのに、それを放棄してしまうなんてすごく勿体ない。


「1を聞いて10を知ったとしても、とりあえず10まで聞く」


ことを試してみると面白いです。
実際に10を聞いた段階で、大抵は「さっきの知ったつもりの10」とは別物だと気づくことができます。



どんな人でも必ず「思い込み」があって、会話やコミュニケーションはお互いの「思い込み」をすり合わせる大切ないとなみ。

お互いの違いに気づいて、それをお互いが埋めていく。
そんなコミュニケーションの素敵な醍醐味を「知ったつもり」でやり過ごさず丁寧に味わえば、たったひとつの会話でも実りのあるものになるかな、などと思ってます。

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【左脳デトックス】

さて、久しぶりのコラム更新。
これからは少し方針を変えて、これまでのコラムに加え、140文字つぶやきのようなショートショートコラムも併せてここで更新していこうかなと思ってます。

コラムにしてもつぶやきにしても、やはり文字であり文章であり言葉。
言葉のパワーは時として人に素晴らしい感動を与えたりもするけれど、言葉の限界というものも厳然と横たわる。
今年の夏はぼんやりと、そんなことをずっと思っていました。



ツイッター等でよく見かけますよね。

  政府や自治体への罵詈雑言。
  放射能汚染のもっともらしい分析。
  避難・除染・不安・安心・安全という言葉の大渋滞。
  それに対して言葉じりを捕まえたような中傷。
  白熱した議論が単なる140文字の大ゲンカに変わるさま。

分析のための分析。議論のための議論。中傷のための中傷。
言葉の乱反射で目まいがするようです。

それでも、それらの言葉や議論によって現状が改善してゆけば良いのですが、どうやらそうでもない。
みんなが寄って集って大ゲンカをしているのを横目で見ながら、色んな物事は確実に進行してしまっています。

何か大変なことが決まりそうになっているというのに、見知らぬ人同士で顔も合わせずに、
 「反対!」「いや賛成!」
を言い合い続けて、結局のところ実際のリアル社会には何も貢献していない。



そんな状況を見ていて、僕は「文章」というものから、この夏は少しだけ距離を置こうと思いました。
コラムもちょっとお休みして、tumblrも始めて、ツイッターもなるべく画像中心に、音楽も身体を使った練習を中心にして、

 「右脳の夏」「身体の夏」

とすることにしました。
ひとまず「BEAT COMMUNIST」開催の10/30まではそうしてみよう、と。

すると、これまで言葉で解決しようとしていた精神的なブレや凹凸が、ウソのように消えました。
言葉の乱反射によって薄まっていた感覚を、一気に取り戻したようなヒリヒリ感。
作る音楽もさらに感覚的・直感的になったし、ひとつひとつの言葉を大切にして伝えられるようになった。
僕の社会的な存在価値は「感覚を提供して共有すること」だという、音楽家としての基本中の基本を、身体が思い出してくれたかのようでした。

この試みは、僕にとっての「左脳デトックス」になりました。



今年最後のビーコミュも終わり(遊びにいらしてくれた皆さん、ホントありがとね〜!)、言葉や文章への距離感を再び見つめ直してみようと、まずはコラム再開から。
言葉を最小限にするという楽しさも、ショートショートコラムの形で表現できれば良いなあ、と。

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