Column

【ヒューマンスケール】

昨日は年に一度の「丸の内検定」。
Suono Dolceナビゲーターの仲間たちと一緒に受検しつつ、その後に採点会と称した飲み会。
毎年その飲み会が楽しみで受けてるわけなのですがw

オトナになってテストを受けることも無くなったし、マークシートにマークする機会なんてほとんど無くなったので、鉛筆を持参するなんて久々だったのですが、そう言えば僕の持ってる鉛筆は大学受験の時に湯島天神で買った合格祈願の鉛筆でした。
しかもあまり減ってなくて割と長いままw
大学受験が終わってからいかに鉛筆を使ってなかったのかを痛感しました。


ていうか、この鉛筆は20年も持ってるってことに改めてビックリ。
20年前から変わらないのって文房具と本とレコードくらいかも。
ケータイや家電は論外だし、CDだってモノによっては劣化による音飛びが始まってるし(実はCDってサビるんです)。

そう考えてふと周りを見渡してみると、人間ひとりの心や身体を基準にして作られているものが意外と少ないな、と。
大量生産されて、使い方を憶えた頃にはもう新製品が出て、ようやく手足のように使いこなせるようになった頃には生産中止になってた、ってこともザラですよね。



建築で使われる言葉に「ヒューマンスケール」というのがあります。
人間が活動するのにふさわしい空間づくりのこと。
木造2階建ての僕の実家なんかはヒューマンスケールですが、高速エレベーターで行き来する高層ビルなんかはヒューマンスケールの尺度をあきらかに超えてます。

建築だけでなく、今の時代あらゆるものがヒューマンスケールを超えちゃってるなあ、と感じ始めました。


例えばいま手元にある一本のマジックインキ。これも1日に何万本と大量生産しなければ供給できない訳で、実はある意味ヒューマンスケールを超えちゃってますよね。
コンビニやスーパーに売ってる食品もそう。同じお弁当やおにぎりが全国で1日何十万食も作られてる。そして売れ残ったら捨てる。

最寄り駅に屠殺場があるのですが、道路には牛や豚を乗せたトラックが何十往復も行き来して食肉が大量生産されてる。もちろんそれらも売れ残れば捨てられる。
この夏は「節電」が大々的に言われてるけれど、そもそも「何千万kw」という単位そのものが大きすぎて肌で感じる理解を超えてる。

株式市場で1日に何十兆円という金額が右から左に動いてる。実際にそれだけのお札が動くのではなくて、単なる数字の概念だけが動いてる。
目では見えず肌では触れられないその数字のために、大金持ちになる人もいれば自殺する人もいる。

見渡せば見渡すほど僕たちは、生活のあらゆる部分でヒューマンスケールを超えちゃってるんですね。



これだけ自分たちの身の丈を超えちゃってる今、これ以上のスケールアップを望むことが人間らしい生活なのか、と疑問に感じています。
「経済発展のために」とか「豊かなくらしのために」とかって、聞こえは良いのですが、それって裏を返せば、

「人間の判断基準を超えた生活のために」

と聞こえなくもないのです。

人間ってそんなに偉くて強いのでしったっけ?
丸腰なら屠殺場の牛一頭にさえ踏みつぶされてしまうのに。
こういう時に使う言葉がありました。


 「身の程知らず」


もう少し人間の「本当の身の丈」に合った生活があるように思えてなりません。

いっぽんの鉛筆がそんなことまで教えてくれました。さすが湯島天神。

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