Column

【避けられない人間関係って?】

僕などは心がもの凄く弱いタイプなので、何かしら人間関係でひっかかりがあるとたいてい夜グッスリ眠れなくなってしまいます。

なので、人間関係をグズグズさせないように、数年前からある態度で生活に臨んだのですね。

それは、あらかじめ「嫌われても別にいいや」と思いながら日々を送ることにしたのです。

以前のコラム「ネットとの付き合い方」でも書きましたが、人って知らぬ間に、嫌われないようにすることに心血を注ぎすぎてるんですよね。それが人間の性でもあるのでしょう。


とまあ、そう思うようになって数年経ちますが、結論から言えば、非常に効果的でした。


朝起きて一日を始めるのが楽しくなるのです。

それって何かイイでしょ?



「どうしても避けられない人間関係」って、肉親でもない限りそんな関係はないと思うのですが、なかなかそうもいかないのは何故でしょうか。

この国では特に、人と人との馴れ合いで成り立っているところがありますから、何とも離れがたいこともあります。

同じ業界に長くいれば、また別の機会に顔を合わせたりもしますからね。


それらを考慮に入れたとしても、「避けられない人間関係」っていうのは結局のところ、避けることによって生じるリスクを自分自身が負いたくないだけなんですよね。

つまり自分自身が何かを守りたいだけ。


 何となく収入のことを考えたり。

 何となく周りの評判を考えたり。

 何となく生活しづらくなるんじゃないかと不安になったり。

 何となく老後のことまで考えたり。


もちろんこういう事を考えるのは人情ですし、僕もしょっちゅう考えてます。


でも、人間関係が崩れたからって、自分の生活が脅かされるなんてことは殆どないのですよ。

それは見えない悪魔を怖がるようなもの。

リスクを取るのが怖いから、ズルズルと人間関係を断ち切れずに、嫌われるのを怖がってしまう。



 職場の上司であれば、職場を変えれば良い。

 部活の先輩であれば、部活を辞めれば良い。

 ネット上の繋がりであれば、アカウントを変えれば良い。

 親友であれば、たぶんその人は親友じゃない。


こういう考え方はリスキーであることは確かです。

でも、リスクを回避しているうちに結局はだんだんと「自分は自分の人生を生きている」ということを忘れてしまう。

僕はその方がよほどリスキーだなと思うのです。



たとえ今の生活の中で突然、人間関係を断ち切ることが出来なくても、

「いつでも孤独になってやる」

「ひとり上等!」

という覚悟は常に必要だなと思います。

その覚悟さえあれば、実は人間関係もグズグズにならずに済むんですよね。不思議なことに。


「この人間関係を断ち切るんだ」と思い切ることができれば、世の中の薄皮が一枚剥がれたように自分の人生を生きることができるし、それがひいては、毎日を気持ち良く生活する事に繋がるなあ、と実感してます。

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【地方空港の使い方】

最近よく問題になっている「地方空港の作り過ぎ」。

日本の空港って102もあるのですねー。都道府県の数の2倍以上もある。確かにそれは作りすぎだわ。

もちろん背景に沢山の問題があるとは思うし、マスコミも「誰々のせいだ」というキャンペーンは張るけれど、

 「作っちゃったものをどうするか?」

については何の知恵も聞こえてこない。


別のニュース番組では、連休や大雪での交通渋滞情報。

東名高速の渋滞で並んでいるのはほとんどトラック。

渋滞の大きな理由は運送業のトラックなんだねー。

トラック輸送が減ったら高速道路の渋滞は激減するんだろうなあ、としみじみ。



あれ・・・?


そしたら道路で運んでいる荷物を空輸すればいいんじゃないの?



各運送会社が専用の飛行機を購入して、地方空港から地方空港へ空輸すればそれで済むんじゃないかな。

わざわざ高速道路で東京を通り過ぎる必要も無いから、首都圏のトラック数も激減。


地方空港も、旅客とは別に貨物での収入が見込めるし、その方が収入的には比較的安定するはず。

何の飛行機も飛ばない飛行場よりよっぽど良いと思うんだよね。

「不景気で貸し出し先が無い」とこぼす銀行は、運送会社に飛行機購入資金を貸し出せば良い。

飛行機の購入が高ければリースでも良い。

日本郵政も相乗りして、国が資金を貸し出しても良い。

郵政の資金がどうのこうの言うのなら、まさにこういう部分にお金を出せば良いんだよなあ。郵便事業とも関連が深いんだから。

引っ越し会社や建築会社と組んでも良さそう。

とにかく、長距離の荷物はどんどん空輸させる。



トラックの運転手さん達の仕事は超長距離ではなくなって、地元と空港とを運搬する短距離の運転になる。または空港での搬入搬出に従事しても良いかも。

いずれにしても過酷な長距離運転の過労や睡眠不足が無くなるはず。


たぶん大人の事情が100万個くらいあって実現できないんだろうけど、日本の運送会社って意外にフットワーク軽いから、やろうと思えばできる気がする。


みんなでブーブー言うよりもとりあえずやってみればいいのになあ。

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【本当に音楽でないと伝わらないのか】

(つづき)


さて、もうひとつの「音楽を通して何かを伝えたい」場合。


たとえば歌などは歌詞もあるのでこちらになりますよね。

でも、いくらメッセージがあるからと言っても、何でもかんでも音楽に乗せれば良いってものでもありません。陳腐なメッセージを乗せた曲は聴き手の時間を奪う時間泥棒でしかありません。

大切なのは、


 その伝えたいことを伝えるのに、音楽でなくてはならないのか?

 その伝えたいことは、音楽以外の方が伝わりやすいのではないか?


という点を、まずはよく吟味してみることです。



「音楽そのものを伝えたい」場合の純粋な音世界とは違って、こころ、身体、環境、経験、知恵、良心、願望、欲、愛情、、、とにかく自分自身の人間性を総動員して吟味しなければなりません。


●安易にエコや戦争反対を歌うよりも、NGOボランティアに入って活動した方がよほど世の中に広く深く伝えることができるかも知れません。

●政治や社会問題を歌うよりも、政治家になって選挙に立候補した方がよほど分かりやすい活動かも知れません。

●自分の思いをまわりくどく歌に乗せるよりも、毎日のブログで同じことを書いた方がストレートに伝わるかも知れません。

●大きな愛を仰々しく歌う時間を使って、身近にいる大切な人に「ありがとう」と言ってあげる方が愛を広めるかも知れません。


   本当に音楽でないと伝わらないのか?


を、厳しく自己批判することが大切なのですね。



その吟味を経てはじめて、音楽に乗せて何を伝えれば良いのかが自分の中でハッキリしてきます。

そうやって「音楽に乗せて伝えることが最もよく伝わるはずだ」という確信が持てた時に、初めて筆を動かせば良いのです。

というよりも、もうそこまで吟味ができた段階ならば必然的に、楽曲は8割がた完成しているようなものです。あとは筆が勝手に動いてゆくのですね。

音楽とメッセージが溶かし込まれるように一体になれば、それはもう立派に、

「音楽でなければ伝えられないこと」

ですよね。


この吟味プロセスを忘れなければ、音楽を作る時に「出来ない・・・(T_T)」などと悩むということはほぼ100%無くなります。

作るか作らないかをよく考えて、作ると決まったらほぼ自動筆記状態。


もし制作中に筆が止まったり、スランプ状態に陥ることがあったとすればそれは、

「音楽以外のメッセージを、わざわざ無理に音楽に乗せようとしている」

のかも知れません。


   音楽でないと伝わらないことを伝える


これこそが、音楽「で」何かを伝えたい場合の生命線なのですね。

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【音楽で伝えたいのか。音楽を伝えたいのか。】

前回は、初期衝動によって作品の中に子供の落書きのような本質を残すことが大切と書きました。

では、本当の子供の落書きとどこが決定的に違うのでしょうか。

それは、音楽を作ったり奏でたりする時に、その楽曲によって、


 「音楽を通して何かを伝えたいのか?」

  それとも、

 「音楽そのものを伝えたいのか?」


をまずハッキリさせる、ということですね。


  音楽「で」伝えたいのか?

  音楽「を」伝えたいのか?


ここをハッキリさせないと、焦点の定まらないものになってしまいます。

焦点が定まらなくては、どんなに上手なデコレーションが施してあったとしても、実質は子供の落書きと同じレベルになってしまいます。



「音楽そのものを伝えたい」場合は、まさに文字通り「音を楽しみ、音を楽しませる」という点が大切ですね。

政治信条、宗教的要素、社会問題、人間関係とはまったく無縁の、ただただ純粋な音世界。

ストーリー性などの標題は副次的に感じても良いけれど、あくまでも絶対音楽の世界。

音楽が数学や建築に似ているのは、この絶対音楽の世界があるからかも知れませんね。


この純粋な音世界を作るのに、作者が人間的にどういう人なのか、

 良い人なのか、

 ろくでなしなのか、

 礼儀正しい人なのか、

 食生活が乱れているのか、

 性生活が乱れているのか、

 病気なのか、

こういうのは一切関係ありませんね。


もうただただ純粋な音楽の世界が良ければ、作者がどうあろうとも無関係ということです。

作者が人間である必要すらないかも知れません。

コンピューターでも偶然でも不特定多数でも良いのかも知れません。


人柄は良いけれど腕がイマイチな建築家にマイホームを頼まないのと同じで、音世界が良ければ人間性は度外視しても良いと思っています。


そのかわり、耳の鋭敏さ、研ぎ澄まされた感覚、世界の構築能力、イメージ力、色彩感覚、自分自身の能力を総動員して、徹底的に音世界だけで伝え尽くさないといけません。

陳腐な音世界しか提示できないのであれば、作らない方がマシです。



「音楽そのものを伝えたい場合」は人間性よりも能力を総動員することが大切なのですね。

その一方で、「音楽を通して何かを伝えたい場合」には、人間性を総動員した自己批判と吟味が必要なのです。


(つづく)

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【初期衝動】

音楽を作る時に一番大切なのは、

「初期衝動を最後まで大切にする」

ということです。

初期衝動が失われた瞬間にその作品は伝えたいことが無くなる、つまり、作り続ける意味が無くなるのだ、ということを肝に銘じておかなければなりません。


それはどういうことかと言えば、


「たとえ完成間近の楽曲だとしても、作ることを中断する勇気を持つ」


ということでもあります。

これがなかなか難しいのですね。



自分名義の楽曲であればまだしも、お仕事として発注された楽曲などでは至難の業。

発注元の意向、〆切、予算などという無粋なハードルが幾重にも連なっているために、途中のものを中断してゼロから作り直そうなど言語道断であるとお叱りを受けてしまう恐れがあるのですね。

けれど、自分が骨の髄まで納得ずくのものを作りたい、作らねばならないという使命感は一番大切にしたい。



ではどうするか?

実は簡単なことだったりします。


もともとそういう葛藤を生むような状況を作り出さないようにすれば良いのですね。

具体的には、出来るかぎり早い時点で、初期衝動に任せて大まかなラフを作ってしまうということです。それこそ半日から1日で。


その段階では、細かい部分や全体のカラーや統一感などは完全に無視する。

どんなにちゃちなものでも、


「これは全然ラフなんだからね、自分よ。」

「完成図はこんなもんじゃないけど、今はこれで良いのだよ、自分よ。」


と自分に言い聞かせて、細かく手を入れたい欲を抑えながらまず全体像を作ってしまう。

後で大幅に直すかも知れないとか、これは本当に良い仕上がりになるのだろうかとか、そういうことは一切考えず、ただただ子供の落書きのようにざーーーーっと、とりあえず最後まで作り切ってしまう。



そうして短い時間で作ったラフには、必ず初期衝動の痕跡が残ります。

その痕跡こそが、その楽曲の肝なのですね。



作りきらずに一日でも置いてしまうと、この初期衝動自体が一晩寝かされて発酵されてしまい、妙な「うま味」みたいなものが出てしまいます。

それがまた熟成された美味しいアイデアに感じるものだから、昨日作りかけて途中だったラフにペタペタ継ぎ接ぎしてしまいがち。

でも、そんなことをしてしまえば、たちどころにその楽曲の肝が損なわれてしまいます。

何が言いたいのか焦点がぼやけてしまい、結局のところ「昨日のチャーハンと今日のチャーハンを混ぜたような、ピンぼけの楽曲」になってしまうのです。


万一そうなった場合にも、早い段階で進めてさえいれば、ゼロから作り直す時間的余裕があるわけですから、ゼロから作り直す勇気を持ちやすい。

ごちゃまぜチャーハンになった楽曲は即座にボツにして、1日目に作ったチャーハンのラフは、それ単体で別の機会にあらためて作り直せば良い。



初期衝動のままその日じゅうにラフを作りきってしまえば、〆切を守るのではなく、〆切に攻めていく感覚をつかむことができます。

〆切に攻めていく感覚を掴めれば、その楽曲はもう自分のものになっていると言えるでしょう。



〆切や予算や大人の事情が自分の初期衝動に勝ってしまう、そんなセミの抜け殻のような楽曲を世に出すことは「騒音公害」だという自覚を持つことが大切なのですね。

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【のたり松太郎】

好きなマンガがあると何周も何周も読んでしまう僕ですが、この「のたり松太郎」もそう。

作者はちばてつや。「あしたのジョー」「あした天気になあれ」を描いた方ですね。もちろんこの2作品も読破しましたが、「のたり松太郎」はもう別格の面白さ。



とにかく主人公の坂口松太郎がとんでもない。

乱暴者で自分勝手で怪力の持ち主。

よく人を殺さないで済んでる、と言うようなエピソード連発です。もちろんマンガだからこそなのですが、それにしてもよくもここまで乱暴な男を描けるものだと感心してしまいます。


「気が荒くて力持ち」って・・・人間として一番近寄りたくないタイプ。

僕なんてたぶん2秒で絞め殺されちゃいます。



また、タイトルに「のたり」とついているだけあって、とにかく怠け者。

マンガで怠け者を描くとこんなにもダラダラと冗長になるのか、というようなページの無駄遣いっぷり。

何ページ進んでもこの男は稽古すらせず、1話分まるまる呑気に釣りなどしているのです。30巻目に至っては、1巻まるまるサボって競馬にうつつを抜かしたりするし。

ここまで来ると、主人公がサボってるんだか作者がサボってるんだか分かりません。


そのうえ、ときどき突発的に、相撲とはまったく関係ないストーリーで松太郎が大暴れしたりするので、とにかく読み手を混乱させるマンガであることは確かです。



でもね、セリフにもコマにも描いてはいないのですが、最後まで読んで分かったことがありました。

それは、彼が全36巻中ほんの数回だけ見せた頑張りが、すべて他人のためだったということ。

一度読んだだけでは分からないほど、あまりにもさりげない描写なのです。

そういうさりげない漫画、僕は大好きなのですよ。

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