どんなことでも、自分の身体からの声を正直に聞けば本質が分かる。
情報社会では、外からの情報で自分が動かされやすい。
外からの情報ではなく、自分の中からの情報を大切にする。
<情報は内から>
<もの分かり>
他人の意見に対して、もの分かり良く行動する必要はない。
自分の思いに対してこそ、もの分かり良く行動することが大切。
もの分かりの良さは、他人の意見の具体化のためではなく、自分の行動を絞り込むために駆使する。
<音楽と言葉>
音楽は、言葉にできない感情を紡いでいる。
3分の楽曲を言葉にしようとすれば少なくとも3日はかかるし、しかも結局は語りつくせない。
ましてや名曲なぞを語ろうとすれば何百年もかかるし、これも結局は語りつくせない。
にもかかわらず、聴き手はその感動を何とか言葉で表現しようとする。
聴き手のその思いが、何百年前の音楽を「古典」として語りつぐ原動力になる。
「音楽は、言葉では言えないものを作る」
というのは、実は作り手の心理的都合にすぎない。
「音楽は、聴き手の言葉によっても大きく伝播する」
という、多数の作り手が見落としている当然の事実を肝に命じなければならない。
<原則非同期>
自分の生き方、考え方を、他の何かと同期させない。
他人と同期させない。
環境と同期させない。
過去と同期させない。
常識と同期させない。
世間と同期させない。
ましてや国家とは何をか言わんや。
<嫌いになってから>
やらなければ恐れる。
やれば好きになる。
やり過ぎると嫌いになる。
それでも続けてようやく血肉になる。
やり過ぎで止めれば嫌いのまま終わる。
だから、嫌いになった時にこそ続ける。
嫌いになってからが本当の始まり。
好きでも嫌いでもなくなって、はじめて自分の生き方になる。
<やる気>
何か物事がうまく進まない時には必ず、誰か「やる気のない人」がいる。
それは自分かも知れないし、仲間かも知れない。
物事がうまく進まない時にはまず、
・自分のやる気を、自分自身正直に問い正す。
・仲間のやる気を、客観的に見つめてみる。
・やる気のない人(自分または仲間)をその任から離し、別の任に就かせる(または就く)。
「やる気がない」と「能力がない」は全く別次元の話にもかかわらず、「結果が出ない」という意味では、傍から同じように見えてしまう。
「やる気がない」というのは、実は罪ではない。
「やる気のでるところ」に移動すれば良いだけ。
<大きなことを考えている時>
自分自身のキャパから離れた大きなこと、
・大きな国際問題
・日本の政治の行く末
・資本主義社会の限界
・1000年後の地球環境
などを考えている時は、
(1)夢と希望にあふれている
(2)目先の面倒なことから逃げたがっている
のどちらか。
しかも、たいてい(2)の方が多い。
—
そんな時は、
・今やるべきことを全部やって、
・トイレに行って、
・翌朝までぐっすり寝てみる。
ほとんどの場合、翌朝にはきちんと自分自身の課題に向き合えるようになっている。
—
大きなことを考えるというのは、小さなことから逃避する手段にもなり得る。
自分自身の問題を解決できない人間に、人間社会の問題を解決できる訳がないと、普段から肝に銘じておく。
【アウトプットの集中力】
集中力によってパフォーマンスに天地の差が出ることを実感しています。
「集中力」と簡単に言ってしまいましたが、インプットとアウトプットとで「集中力」に対してまったく逆の姿勢をとっている人は意外に多いです。
—
インプット時の集中力欠如は分かりやすいです。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
味わっているようで味わっていない。
僕自身も結構(と言うかしょっちゅう)やらかしますが、インプットの時に集中力が欠けることは割と誰もが自覚できます。
「あれ?途中まで読んだはずの本、読んだはずなのに内容あんまり憶えてないなあ」
「美味しいと評判のお店に行ったのに、おしゃべりに夢中でイマイチ味を憶えてないなあ」
という、インプットの集中力で反省する経験は結構ありがちです。
—
でも、その逆はどうでしょう?
話しているようで話していない。
書いているようで書いていない。
歌っているようで歌っていない。
アウトプット時の集中力に欠けているかどうか?
そんなこと、普段から意識しているでしょうか?
「あれ?この前アイツに話した話、きちんと話せたっけなあ?」
「この前書いた文章、集中して書けたっけなあ?」
というアウトプットでの集中力の欠如に関しては、なぜか普通はそんなに深く考えないんですよね。
そういう時はたいてい、
「アイツに話した話、ちゃんと理解したのかなあ?」
「この前書いた文章、ホントに分かってくれてるのかなあ?」
「世間にはリテラシーの低いヤツが多いからなあ」
と、自分以外に原因を求めがちになります。
インプットの時には殊勝な気持ちで反省できていた自分が、なぜかアウトプットのミスの場合に限っては他人のせいにしてしまうのです。
—
インプットがイマイチな時に、最初に気づくのは自分自身。
でも、アウトプットの時は少し様相が違う。アウトプットがイマイチな時に最初に気づくのは、自分ではなくまず相手なのですね。
逆の立場になってみればすぐに分かります。
他人の話で、
「あれ?イマイチよくワカラン」
と思ったとしても、それを正直に、
「オマエいま集中して話せてる?」
なんてわざわざ訊いたりはしないですよね。
単に聞き流せば良いだけの話ですから。
つまり、受け手側は送り手の集中力のことなんか教えてくれないし、そもそも考えてもいないのです。
「話のつまらない人」
「文章がヘタな人」
という、アウトプット結果に対する評価しか残りません。
—
もしも自分からのアウトプットコンテンツ(話や文章や音楽や料理、何でも)が他人に伝わりきっていない時には、自分の才能・表現力・頭の良さ・結果の完成度などを疑う以前に、まずは、
「アウトプット時の自分の集中力のなさ」
を疑うことが、表現力を向上させる上で大切なことだと感じます。
ちょっと何かが伝わらなかったくらいで「自分には才能が無いんだ」「世間は分かってくれないんだ」などと落ち込むなんてのは、他人依存症の甘えた態度なのです。
<鮮度の選択>
気持ちの鮮度、アイデアの鮮度はバカにできない。
ただし、情報の鮮度を追求するのは非常に危険。
流行や他人の目や世間の空気ばかりを気にするようになると、もっとも大切な自分自身の鮮度を失う。
流行を追えば流行の老廃物になる。
追うべきは自分自身の気持ちの鮮度だけ。
<やりたいこととできること>
「やりたいことをやる」
を最優先させると同時に、
「やりたくないことをやらない」
も大切にする。
そこには
「できるかどうか?」
の検討はまったく必要ない。
「できること」
を優先させてしまうと、人生は、
「やりたくないけどできること」
で埋まってしまう。
<結果とは>
「結果を出す」ことと「数字を出す」ことがイコールに思っている人が大多数を占めている。
僕が思う「結果を出す」というのは、もっと単純に、
「自分も他人も幸せな気分になること」
だと思っている。
それを甘いと感じる人も大多数を占めている。
「ビジネスの世界では数字は当然だ」と言う。
ビジネスの世界って何だろう?
ビジネスの世界という場所に24時間365日いるのだろうか?
少なくとも僕は人間の世界に生きていると思っている。
だから「結果」とは「数字」でなく「幸せの提供度」なのだと思っている。
<朗読アプリ案>
書籍や雑誌を、
→PDF化
→OCRで文字認識
→VOCALOIDで音声変換
→MP3でオーディオブック化。
こんなアプリがあればジョギング中に読みたい本が聞ける。
「有名俳優や声優によるVOCALOID朗読アプリ」
みたいなバリエーションがあればいいなあ。
<機嫌という仕事>
機嫌の良い状態の作品は、明るいオーラも暗いオーラも放ちやすい。
機嫌の悪い状態の作品は、明るいオーラを放ちにくい。
ということは、「機嫌の良い状態」を保つことが作品の幅を広げる重要な仕事のひとつだと言える。
「ポジティブ思考」とか「人生を明るく」とかそういう生活のコツの類ではなく、
「機嫌を良くする」ことは、ものを作る人にとって重要な仕事のひとつだ
と捉える。
【「深読み」と「無関心」】
僕は音楽を「言葉のない会話」と捉えています。
なので、会話の時と同じように、どの楽曲でも、
「もしも誰かが深読みしようとした時にも、ズンズンと深みにハマれる」
ように、幾重にも意図と意匠を編み込んでいます。
でも、切ないことに時代は、
「1曲の深読み」
よりも、
「多くの曲のプレイリスト」
が主流で、1曲の持つ重みが軽くなりました。
もちろんそれ自体は悪いことでなく、僕はむしろ良いことと捉えています。
アルバム単位でなく1曲単位でダウンロードできる。
携帯プレイヤーで何千何万と曲を持ち歩ける。
自分が思ってもみなかったシャッフルを楽しめる。
10年前には考えられなかった音楽の楽しみ方が広がりました。
音楽はコミュニケーションですから、作り手の意図と聴き手の感じ方が必ずしも合ってなくて良いと思います。
ただ、これだけの音楽の洪水の時代の中で、
「聴き手が作り手の意図を知る機会」が薄らいでいる
ということに、コミュニケーション手段としての不備を感じるのも正直なところです。
—
これまでに作った幾つかの楽曲では、幸運にも、聴き手が僕の意図までを深読みしてくれる瞬間がありました。
そういう時には、
「自分は、音楽家としてこの世に存在していても良いのだ!」
と身体全体でビリビリ感じ、筆舌に尽くしがたいほどの至福を感じます。
もちろんその逆もあります。
会心の出来映えなのに、意図はおろか楽曲そのものを聴いてもらえず、相手にもされない瞬間。
「相手にされない」というのは、「ケナされる」よりも段違いに切ない。
ケナされるというのは、逆に言えば「聴いてもらえた」ということだから、そこに関心そのものは存在するし、コミュニケーションが成立しています。
でも「相手にされない」というのは無視・無関心だから、そこにコミュニケーションは存在しません。
これほど切ないことはないのだけれど、実は曲を作っているとそういう場面に何度も何度も出くわします。
ライヴ演奏であれば、ほとんどの場合は誰かしら(スタッフかも知れないし、オーディエンスかも知れないし、バンドメンバーかも知れない)が聴いています。
聞こえているだけという状態かも知れないけれど、聞いている人がいる場合が大半です。
けれど、作曲に限っては、聴き手がゼロ、ということがあり得るのです。
発表するつもりで作って、ネットにもアップしたけれど、視聴数ゼロ。という場合だって決して珍しくはないのです。
しかもそういう切ない機会というのは、想像よりもはるかに多いのです。
音楽に限らず、作品を作るというのは「他人の無関心」という強烈な孤独感に耐える作業なのかも知れません。
コミュニケーションは、どこからか「無関心」というガン細胞が入り込んだ瞬間、死滅します。
—
僕はプロアマ問わず、他人の曲はなるべく聴くようにしています。
中には「なんだこりゃ?」みたいな楽曲もありますが、それでも「なんだこりゃ?」という感想を持つようにしています。
「作った本人が一番切ないのは聴いてもくれないことだ」と肌で知っているからかも知れません。
同じように、人の話もなるべく聞くようにしています。
僕は忘れっぽいので10分後には聞いた話を忘れているかも知れないけれど(実際多いですw)、コミュニケーションの基本は「話すこと」よりも「聞くこと」と感じているからかも知れません。
<選択肢を多角化する>
白黒はっきりと結論が得られない場合、
「白と黒のあいだのグレー」
という安易な妥協点を選択する前に、まったく別の視点から、
「赤・黄色・青」
という選択肢を探してみる。
モノクロで考えていたことをカラーで考えてみるだけで簡単に解決することも多い。
二択は敵と味方を生むが、三択以上は価値観の尊重を生む。
【「思いつき」のシェイプアップ】
他人のアイデアを「単なる思いつき」と笑う人は、
「素晴らしい結果を生む最初の一歩は思いつきだ」
ということを忘れているのかもしれません。
偉大な業績はたいてい思いつきから始まっていますから、その大切な種を一笑に付して終わらせてしまう人は、もしかすると思いつきの素晴らしさを味わったことがないのかも知れません。
—
では逆に、自分の思いつきを「単なる思いつき」と済まされてしまう自分サイドにはまったく問題は無かったのでしょうか?
自分の思いつきを他人に伝えることに充分な工夫をしていたと言えたのでしょうか?
その検証をしなければフェアではないですね。
なぜ、思いつきは「単なる思いつき」だけで片づけられてしまうのでしょうか?
それは、思いつきを自分なりに整理できておらず、ポイントを絞れていないからです。
自分のなかでポイント整理できていないものは、絶対に他人には伝わりません。
—
では、ポイントを絞るにはどうしたら良いのでしょうか?
思いついたことを、とにかく極限までシェイプアップさせることが大切です。
具体的には、
自分の思いつきを「10文字前後の一言」まで絞り込む。
という作業が最も大切です。
まだブヨブヨと脂肪がついている思いつきを、体脂肪率1ケタ台の「細マッチョ」にまでシェイプアップさせるのです。
絞り込んだその「10文字前後の一言」だけで他人に本質が伝われば、それはもう「単なる思いつき」ではなく「素晴らしいアイデアの種」に昇華されます。
何よりも良い効果は、絞り込む過程でポイントが自分なりに整理され、自分の変なこだわりも文字とともに捨てていける、という点です。
逆に、10文字前後にまで絞れない思いつきは、焦点が定まっていないか、面白みや新鮮味に欠けるかで、結局のところ「単なる思いつき」程度のものだったということ。
キャッチコピーと似ていますが、キャッチコピーほどキャッチーさやインパクトを追い求める必要はありません。
キャッチーさよりも、その一言にアイデアの本質を凝縮させようとする姿勢の方が大切です。
—
何かを思いついた時に、とにかく10文字前後の一言にシェイプアップさせるクセをつけると、
「発想を整理する習慣」
「言葉を厳選する習慣」
が身につきますし、何より「思いつき」の精度が飛躍的に高まります。
<その時の「感動した」は本当か?>
自分の感動を疑うことって、実はあまりないと思う。
でも、その時の「感動した」は果たして本当なのか?
単なる先入観ではないのか?
前評判に踊らされていないか?
著名人だからではないのか?
劣等感からの逃避に都合が良いからではないのか?
大多数の意見に飲まれていないか?
好きな人が推しているからではないのか?
自分の感動さえ疑うことを「野暮」だと感じるかも知れない。
「野暮」だと感じる時は、自分の現状という殻を抜け出す必要がないと思っている時。
もし自分の殻を破りたければ、野暮であろうが何であろうが、自分の感動する心そのものさえ見直す覚悟がいる。
<効率的な練習の善し悪し>
効率を考えて練習をしていると、知らぬ間に脳も身体も「節約モード」になってしまう時がある。
「メニューの効率」と「身体の使い方の効率」というのは、明確に分離して考えなければいけない。
でないと、練習メニューを効率的にしようとするがあまり、練習そのものでも効率的にこなしてしまい、身体を限界まで痛めつける試みを怖がったり、エネルギーを最大に発散させたりすることを止めてしまう。
演奏では、エネルギーを最大級に発散させることで聴き手とのエネルギーの交流が生まれ、その交流が全体の感動を呼び起こす。
「脳や身体の効率を度外視し、ストッパーを外す」
という練習も、効率的な練習と同じくらい必要。
<「道」と「教」>
「道」は自分の鍛錬をきっかけにする。
「教」は他人の導きをきっかけにする。
「道」には明確なゴールはない。
「教」には明確なゴールが示されている。
「道」はプロセスそのものに価値を求める。
「教」は悟りそのものに価値を求める。
決定的な相違点ばかりだけれど、ひとつ共通点がある。
「道」も「教」も、本来は自主的なものだということ。
自分で考え、自分で動き、自分で悩み抜いた時に、はじめて助けになるもの。
「癒し」だとか、
「心のスキマ」だとか、
「マニュアル」だとか、
「○○日でマスター」だとか、
そういう類とは真逆にあるものが、本来の「道」であり「教」だと思う。
<意思決定+時間軸>
楽曲は意思決定の積み重ねだから、
「なぜその音を選んだのか?」
を、作曲者は一音一音すべてに説明できる。
けれど、それをしない。
なぜなら、一音一音は説明できても、それらの「繋がり」は楽曲を聴く以外に感じてもらえる方法はないから。
音楽とは、意思決定を時間軸で表現するもの。
<破壊の前提条件>
「何かを破壊して新しいことを創造してやろう」という心意気は良いが、その前にまず日々の鍛錬や勉強でその「何か」とは何か?を知らなければ、創造はおろか破壊さえできない。
【1を聞いて10を知ってからのひと手間】
「1を聞いて10を知る」人は、たいてい気が利く人と捉えられていますよね。何かとっても有能の人の象徴のような。
でも、僕はあまりそう思わないのです。
「1しか言ってないのに10も分かった気になる」ってことは、残りの9はその人の推測ってこと。
もちろんその人の豊富な経験に基づいた推測だとしても、こちらの真意がほとんど伝わっていない可能性もある。
つまり「予断の多い人」だと思えるのです。
かなり信用のおける仲間同士だとしても、これはコミュニケーションとして危険なことだなあ、と。
僕も何度か「知ったつもり」と「知られたつもり」で大失敗したことがあります。
知ったつもりになっているぶん、自分と相手との「思い込みの差」に気づかないである程度まで話が進んじゃうんですよね。
それで実際に物事が動いた時に、
「あれ?こんなはずじゃなかったよね?」
「え?だってそう言ったじゃん」
よくある、悪夢のような、夢なら醒めてほしいような、コミュニケーション不足によるトラブルに陥るのですね。
—
分かった気になってしまうってのは、実はすごく損です。
だって、他人が10教えてくれようとしているのに、1だけで終わってしまうのですから。
残りの9の中に、これまで自分が知らなかったことが入っていたかも知れないのに、それを放棄してしまうなんてすごく勿体ない。
「1を聞いて10を知ったとしても、とりあえず10まで聞く」
ことを試してみると面白いです。
実際に10を聞いた段階で、大抵は「さっきの知ったつもりの10」とは別物だと気づくことができます。
—
どんな人でも必ず「思い込み」があって、会話やコミュニケーションはお互いの「思い込み」をすり合わせる大切ないとなみ。
お互いの違いに気づいて、それをお互いが埋めていく。
そんなコミュニケーションの素敵な醍醐味を「知ったつもり」でやり過ごさず丁寧に味わえば、たったひとつの会話でも実りのあるものになるかな、などと思ってます。
【左脳デトックス】
さて、久しぶりのコラム更新。
これからは少し方針を変えて、これまでのコラムに加え、140文字つぶやきのようなショートショートコラムも併せてここで更新していこうかなと思ってます。
コラムにしてもつぶやきにしても、やはり文字であり文章であり言葉。
言葉のパワーは時として人に素晴らしい感動を与えたりもするけれど、言葉の限界というものも厳然と横たわる。
今年の夏はぼんやりと、そんなことをずっと思っていました。
—
ツイッター等でよく見かけますよね。
政府や自治体への罵詈雑言。
放射能汚染のもっともらしい分析。
避難・除染・不安・安心・安全という言葉の大渋滞。
それに対して言葉じりを捕まえたような中傷。
白熱した議論が単なる140文字の大ゲンカに変わるさま。
分析のための分析。議論のための議論。中傷のための中傷。
言葉の乱反射で目まいがするようです。
それでも、それらの言葉や議論によって現状が改善してゆけば良いのですが、どうやらそうでもない。
みんなが寄って集って大ゲンカをしているのを横目で見ながら、色んな物事は確実に進行してしまっています。
何か大変なことが決まりそうになっているというのに、見知らぬ人同士で顔も合わせずに、
「反対!」「いや賛成!」
を言い合い続けて、結局のところ実際のリアル社会には何も貢献していない。
—
そんな状況を見ていて、僕は「文章」というものから、この夏は少しだけ距離を置こうと思いました。
コラムもちょっとお休みして、tumblrも始めて、ツイッターもなるべく画像中心に、音楽も身体を使った練習を中心にして、
「右脳の夏」「身体の夏」
とすることにしました。
ひとまず「BEAT COMMUNIST」開催の10/30まではそうしてみよう、と。
すると、これまで言葉で解決しようとしていた精神的なブレや凹凸が、ウソのように消えました。
言葉の乱反射によって薄まっていた感覚を、一気に取り戻したようなヒリヒリ感。
作る音楽もさらに感覚的・直感的になったし、ひとつひとつの言葉を大切にして伝えられるようになった。
僕の社会的な存在価値は「感覚を提供して共有すること」だという、音楽家としての基本中の基本を、身体が思い出してくれたかのようでした。
この試みは、僕にとっての「左脳デトックス」になりました。
—
今年最後のビーコミュも終わり(遊びにいらしてくれた皆さん、ホントありがとね〜!)、言葉や文章への距離感を再び見つめ直してみようと、まずはコラム再開から。
言葉を最小限にするという楽しさも、ショートショートコラムの形で表現できれば良いなあ、と。
【ヒューマンスケール】
昨日は年に一度の「丸の内検定」。
Suono Dolceナビゲーターの仲間たちと一緒に受検しつつ、その後に採点会と称した飲み会。
毎年その飲み会が楽しみで受けてるわけなのですがw
オトナになってテストを受けることも無くなったし、マークシートにマークする機会なんてほとんど無くなったので、鉛筆を持参するなんて久々だったのですが、そう言えば僕の持ってる鉛筆は大学受験の時に湯島天神で買った合格祈願の鉛筆でした。
しかもあまり減ってなくて割と長いままw
大学受験が終わってからいかに鉛筆を使ってなかったのかを痛感しました。
ていうか、この鉛筆は20年も持ってるってことに改めてビックリ。
20年前から変わらないのって文房具と本とレコードくらいかも。
ケータイや家電は論外だし、CDだってモノによっては劣化による音飛びが始まってるし(実はCDってサビるんです)。
そう考えてふと周りを見渡してみると、人間ひとりの心や身体を基準にして作られているものが意外と少ないな、と。
大量生産されて、使い方を憶えた頃にはもう新製品が出て、ようやく手足のように使いこなせるようになった頃には生産中止になってた、ってこともザラですよね。
—
建築で使われる言葉に「ヒューマンスケール」というのがあります。
人間が活動するのにふさわしい空間づくりのこと。
木造2階建ての僕の実家なんかはヒューマンスケールですが、高速エレベーターで行き来する高層ビルなんかはヒューマンスケールの尺度をあきらかに超えてます。
建築だけでなく、今の時代あらゆるものがヒューマンスケールを超えちゃってるなあ、と感じ始めました。
例えばいま手元にある一本のマジックインキ。これも1日に何万本と大量生産しなければ供給できない訳で、実はある意味ヒューマンスケールを超えちゃってますよね。
コンビニやスーパーに売ってる食品もそう。同じお弁当やおにぎりが全国で1日何十万食も作られてる。そして売れ残ったら捨てる。
最寄り駅に屠殺場があるのですが、道路には牛や豚を乗せたトラックが何十往復も行き来して食肉が大量生産されてる。もちろんそれらも売れ残れば捨てられる。
この夏は「節電」が大々的に言われてるけれど、そもそも「何千万kw」という単位そのものが大きすぎて肌で感じる理解を超えてる。
株式市場で1日に何十兆円という金額が右から左に動いてる。実際にそれだけのお札が動くのではなくて、単なる数字の概念だけが動いてる。
目では見えず肌では触れられないその数字のために、大金持ちになる人もいれば自殺する人もいる。
見渡せば見渡すほど僕たちは、生活のあらゆる部分でヒューマンスケールを超えちゃってるんですね。
—
これだけ自分たちの身の丈を超えちゃってる今、これ以上のスケールアップを望むことが人間らしい生活なのか、と疑問に感じています。
「経済発展のために」とか「豊かなくらしのために」とかって、聞こえは良いのですが、それって裏を返せば、
「人間の判断基準を超えた生活のために」
と聞こえなくもないのです。
人間ってそんなに偉くて強いのでしったっけ?
丸腰なら屠殺場の牛一頭にさえ踏みつぶされてしまうのに。
こういう時に使う言葉がありました。
「身の程知らず」
もう少し人間の「本当の身の丈」に合った生活があるように思えてなりません。
いっぽんの鉛筆がそんなことまで教えてくれました。さすが湯島天神。
【先を読まない力】
子どもの頃は、大人は知識が豊富で、思慮深く行動するものだと思っていました。
でも、いざ自分が大人になってみると、思慮深さなんてものは大して身についていないことに愕然とする日々。
割とへなちょこな大人になったものだ、と自分でもつくづく感心しています。
また、大人になって初めて、子どもの持つ「何も考えずに突進していく」感覚が大切だと分かりました。
子どもと大人の最大の違いは、「先を読む力」の差だと思っています。
子どもはとにかく先を読まない。
こういう事をすると次に何があるか?を予測しない。
というか、予測できるだけの経験も無いですよね。
だから怖いもの知らず。
傍から見ている大人の方がハラハラドキドキしてしまいます。
大人になると、まあ日常生活でおよそ起こりそうなことは一通り経験しています。
だから、
「ああ、こういう事をするとこういう風になるな」
「あの人にこういう事を言うと、こういう雰囲気になるな」
などが経験から予測がつくようになります。
そこから逆算して行動するようになる。
逆算した結果、行動を慎む場合も出てくる。
いわゆる「空気を読む」というやつですね。
「先を読む力」=「空気を読む力」にもつながっている。
ということは、大人になると「空気を読む力」もつくということ。
ここでふと感じることが。
大人になると、むしろ「先を読まない」ことが出来なくなっているのでは?
大人 =先を読む力がある。
子ども=先を読まない力がある。
と考えると、子どもから大人になったからと言って一概に進歩しているとは言えないのでは?
と感じたのです。
—
大人は、先を読むクセがついた分、ドキドキする力を失っているように思えます。
すべての日常生活がルーティン化して無難にこなせる代わりに、そこに新鮮さを感じることができなくなっている。
大人にこそ、「先を読まない力」というのが必要なのではないか、と。
もちろん、先を読「ま」ない、ということは、子どもと同じで傍から見ると危なっかしくて仕方ない。
でも、先を読「め」ない子どもと違って、本当に危険な時は察知できる経験を大人は持ち合わせている。
あえて「先を読まないで行動する」場面を増やして、人生に新鮮さとドキドキ感を持ち込めれば、単なるルーティンの人生から解放され、日常の景色さえ違って見えるのです。
僕が実際に心がけていることは、
・初めて遭遇する物事には「先を読む力」
・すでに経験した物事には「先を読まない力」
と、場面に応じて逆ベクトルの力を充てる、ということです。
経験したことには積極的に新しいことを取り入れ、
初体験のことには今までの経験をフルに活かす。
これを実践すると、普段の生活にドキドキして、初めての物事には堂々としていられる、という非常に都合の良い精神状態が得られるのでオススメです。
【ヒステリー・ウィルス】
今年のゴールデンウィークはライヴ続き(しかも雨続きw)ということもあって、身体はよく動かしていましたが、ココロ的には、これまでにないほど複雑な思いですごしていました。
この日本という国は昔から良くも悪くも情緒的なお国柄でしたが、ここ最近はヒステリックな空気が漂っているように感じています。
その昔、チェッカーズの歌に「触るものみな傷つけた」とありましたが(今度カバーしてみようかなw)、
恐怖だったり、
不安だったり、
怒りだったり、
もどかしさだったり、
色々な動機があるにせよ、何となくそんな殺気に近いムードを感じている人も多いのではないでしょうか。
—
いま僕がよく思うのが、
「ヒステリーは感染する」
ってことです。
しかも空気感染のような物理的なものではなく、文字や言葉などで簡単に他人にうつってしまう。
ツイッターやブログ、Ust動画などで単に「情報」だと思って摂取していても、肝心の発信者側がヒステリー状態になっていることが最近多いんですよね。
その文字や言葉の「情報」にヒステリーが隠されていて、受け取った側は、情報とともにヒステリーまで受け取ってしまう。
しかも発信者側も受け取り側も無自覚なので、知らないうちにヒステリーが爆発的に感染していく。
ちょうどコンピューター・ウィルスに似ていますね。
そのファイルを開けたら知らないうちにウィルスに感染してた、という感覚。
いま僕は、ネットでもリアルでも、そういう「ヒステリー感染」という雰囲気をすごく感じています。
—
こういう時に「冷静になろう」なんて全く思いません。
冷静になれるものなら最初からヒステリックになんてならないでしょうし、そもそも恐怖や怒りなんてものは、抑えずに発露した方が気が紛れると思うので。
ただひとつ、
「ヒステリーはウィルスのように感染する」
という自覚はしておいた方が良いと思っています。
でないと誰かのヒステリーを自分が受け取ってしまうどころか、自分自身が誰かにヒステリーを感染させてしまいます。
自分の中のヒステリーを手懐けて、
「怒る時にもイイ感じのひと」
を目指そうと思ってます。
【できない理由】
翌日晴れたら、
「昨日の雨でコースがぬかるんでるから」
翌日曇りだと、
「気圧が少し低くて気分がすぐれない」
もう全天候に対応できる「できない理由」が瞬間的に用意されてしまうのです。
人は誰もが「できない理由」を思いつく天才なのかも。
知らないうちに、
ほぼ毎日、
時と場所を選ばずに、
その才能をいかんなく発揮して「できない理由」を大量生産してしまうのですね。
【スタンスを決める】
今回の大惨事では、本当にたくさんの学ぶべきことがあります。
そして、日々学ぶことが増え続けています。
僕が気づいた事も少しずつ、覚え書きのようにここに書いておければと思ってます。
最初に大切だと思ったのは「スタンスを決める」ということ。
こういう状況になると色々な言葉、行動などが飛び交いますよね。
「パニックになるな!」という言葉が溢れて、それ自体がパニックになっていたり。
「自粛しろ!」と言ったかと思えば、今度は「自粛するな!」と言ってみたり。
これまで気にも留めていなかった人たちが狂ったように「原発反対!」を叫び始めたり。
こういうのって結局、普段からその事を考えてこなかった、という裏返しでもありますよね。
あらゆることに対する自分のスタンスが決まっていなかった、ということ。
また、色々なところで色々な質問が飛び交ってます。
どこに募金すれば良いのか?
自粛した方が良いのか?しない方が良いのか?
お花見はしても良いのか?
原発は作らない方が良いのか?
放射能は安全なのか?危険なのか?
マスコミが言っているのは本当なのか?ウソなのか?
野菜は食べて良いのか?
水は飲んで良いのか?
魚は食べて良いのか?
東京を脱出した方が良いのか?
日本を脱出した方が良いのか?
僕は思うんですよ。
「そんなの自分で決めろ」
と。
自分が「安全だ」と思えば、野菜も水も魚も食べれば良いし、
自分が「危険だ」と思えば、東京や日本から脱出すれば良い。
お花見をしたければすれば良いし、
原発に反対ならばデモ行進に参加してみれば良い。
被災地では自分の行動の選択肢が限られている人たちが沢山いる中、少なくとも自分で判断して行動できるはずの僕たちが混乱してどうするんだ、と。
確かに「危険だ」と判断して東京を脱出できるかと言えば、そう簡単にはいかないでしょう。他人の目も気になるでしょうし。
「安全だ」と判断して水道水を飲み続けるのも、それなりに戸惑いがあることでしょう。
ということは、そもそも「どちらの判断でもリスクはある」という事なんですよね。
だから、他人がどう思おうがどう言おうが、自分が判断したスタンスに従って行動するしかないのです。
—
僕たちは、物質的に豊かな生活を享受しすぎて、自分で考えることが少なくなってたんだと思います。
「癒し」「ゆとり」「ゆるキャラ」「草食系」…
ぬるま湯に浸かった生活でなければ生まれないような言葉に囲まれ、温々とすごしてきたのです。
だから、冷や水を浴びせられた時、あまりの水の冷たさに正気を失い、思考停止して呆然と立ちすくんでしまっているのだと思います。
ここで、もうぬるま湯ではない考え方を獲得しないと、この先ずっと思考停止して立ち尽くしたままになってしまいます。
—
いま気になる全ての事柄、全ての言葉、全ての単語について、
「自分ならどうするか」
というスタンスを今のうちに決めておく。
分からない事柄があれば、今のうちに調べて知っておく。
そうしておけば、何よりも自分自身の安心感につながるはずです。
【被災を免れた僕たちは】
地震から3日目の朝、全身が寝違えたようにカチコチに凝りまくってました。
枕元の携帯を見ると、地震以降連絡が取れなかった仲間から「無事だ」とのメッセージ。
嬉しくて飛び起きましたが、まだまだ連絡の取れない僕の仲間、スタッフ、親族、友人がたくさんいます。
—
直接の被災を免れた僕たちはいま、
「被災した人達のために何かをやらなきゃいけない」
という強迫観念に襲われ始めています。
テレビでは信じられないような映像が襲い、
にわかに現実とは思えない津波や原発事故。
ツイッターでは情報と怒号が飛び交う。
日本じゅうの人たちの心身は、たった3日で相当バテています。
でももう明日は月曜日。
世間は否応なく動き始めるし、バテてもいられないという現実。
そして普段の生活サイクルに戻ってしまう後ろめたさ。
—
現実問題、現段階で僕たちが被災者の方々に出来ることは殆どありません。
・節電
・寄付
・献血
・情報のバケツリレー
その他幾つかに限られます。
直接的なことはもう専門家の方々に任せるしかない。
忸怩たる思いだけれど、それが最善策。
軽率なボランティア心が最も混乱を招くことは過去の災害で学んでいます。
でも、僕は思う。
大きく大きく、僕たちがやらなきゃいけないことがある。それは、
元気でいること。
被災した仲間たちが九死に一生を得て再会した時、僕たちが元気な顔を見せて元気な声を聞かせることが、僕たちひとりひとりに出来る最高のことなんだと思います。
今朝はテレビを消して、午前中3時間で曲を作りました。
(節電だからね。3時間でパパッとね。)
被災しただろう仲間の顔を、思い出せるだけ思い出して。
—
僕はこの曲を被災した人たちに聴いてもらおうと作ったのではありません。
被災した人たちはそれどころじゃない。
だいいち、聴ける状況にいる訳がない。
一刻も早く安全な場所に避難して、食料と水と暖を確保し続けなければならない。
僕が聴いて欲しいのは、被災を免れた僕たちです。
実はものすごいショックを受けているけど、
でも被災者を思うと疲れは出せないと憚って、
何も出来ない自分に焦りと苛立ちを感じ、
普通に生活することに何となく後ろめたさを覚え、
ショッキングな情報に心身がバテ始めている、
そんな日本全国の、被災者じゃない人たちに聴いて欲しいのです。
こんな曲1曲で出る元気なんてたかが知れてるけど、少しでも元気が蓄えられれば。
アートワークは盟友、石垣健太郎。
【You Tube】
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—
この震災の復旧はどう考えても長期戦になる。
僕たちが今できるのは、元気をたくさん蓄えて、今後の長期戦に備えること。
僕は、電気は節約して、元気は大量に出すことにします。
そして、これから長く続く復興に、長くじっくり取り組めるだけの気力体力を整えることにします。
【時間の肥満解消法】
(つづき)
時間に対してあやふやな態度のまま、
「今が良ければいいや」
と時間の近眼・時間の肥満になった結果、後で取り返しのつかない事態が自分自身を襲ったとしても、そこで後悔する人はまだ救われます。
人によっては後悔すらせず、またその時点で「今だけ良い」方に逃げ込んでいく。
で、気がつくと、
取り返しがつかないほど齢を重ね、
肉体は老い、
蓄えは元々無く、
心を許せる人はこの世を去り、
孤独のまま死を迎える。
ということになってしまいます。
実際、そういう人生を送ってしまう人も現代では珍しくないのかも知れません。
それはものすごく怖いことです。
長いスパンで物事を考えられない時間の近眼。
今が良ければいいやと考える時間の肥満。
これって、この国の現状そのままですよね。
—
ではどうすれば、長いスパンで物事を考えられるようになるのでしょうか。
それは何も難しいことではなく、単なる時間の見方のコツにあるのだと思います。
何かが起こった時、普通それは過去の何かに原因があると考えます。
まあそりゃそうですよね。原因があって結果があるのですから。
そんな風に、何かが起こった時にはじめてその事を考えるのは、動かせない過去の答え合わせをしているだけなのです。
ここで忘れがちなのは、
「もう過去を動かすことは不可能なのだから、いくら現状を分析しても未来にはつながらない」
ということです。
<原因>と<結果>を、<過去>と<現在>に求めても、それは、もう答えが分かったことを評論しているだけなのです。
<原因>と<結果>は、<現在>と<未来>に置き換えるべきです。
今、現在、この瞬間というのは、<結果>でなく<原因>なのです。
どこか目的地に向かう時に、出発地点を見ながら後ろ向きで歩く人はいませんよね。
目的地の方を向いて歩くはずです。
現状分析ばかりして過去に囚われてしまうのは、出発地点ばかり気にして目的地を向いて歩いてないことと同じです。
今を「過去の結果」とは捉えずに、「未来の原因」として捉える。
「今の自分が未来の原因なんだ」
と思えると、自然と将来を長いスパンで考えられるようになるし、そのために今自分が出来ることを、わりと苦もなく自然に選べるようになります。
<今>を結果として考えるから「今が良ければいいや」になってしまう。
<今>を原因として考えれば、「今も楽しいし、明日も楽しい」になる。
これが僕が実践している、時間の近眼・時間の肥満の解消法です。
時間を長いスパンで考える習慣がつけば、毎日がすごくワクワクします。
【時間の近眼・時間の肥満】
大人になってから気づいた驚愕の事実のひとつとして、
「大人になっても、思考回路は子供の時とほぼ変わっていない」
ということがありますよね。
子供の頃の30代ってすごく大人に見えたはずなのに、いざ自分がその歳になるとまだ全然子供だと感じているのは、おそらく僕だけでないはず。
この事実を子供の時に知っていれば、、、あ、たいして何も変わらないか。
むしろそんな真の宇宙法則を知らせてしまったばかりに、大人に対してナメた態度を取る子供が増えると困りますね。
ひとつだけ、子供の頃からは決定的に成長しておきたい考え方があります。
それは、
「時間」
に対する考え方。
子供の頃は、時間の切り取り方なんて「朝」「昼」「夜」くらいでした。
少し知能がつくと「12時間」から「24時間」に切り取れるようになるけれど、スパンが1日単位なのは変わりません。
スパンを大きく取っても
「一学期→夏休み→二学期→冬休み→三学期→春休み」くらい。
大学生になっても、時間に対する考え方なんてそんなものだったかも知れないなあ。
社会人になって仕事をするようになっても、暦とか年中行事とか、とにかく1年周期のスパンで物事を考えることが多いですよね。
そうすると、時間に対する視野がどんどん狭くなって、
「ああ、もう3月か。今年は早いねー」
という、毎年お決まりのセリフが口を突いてしまう。
これを漫然と言わずして何と言うのでしょうか。
「時間」というものをこんな風に、ざっくりと、おざなりに、なおざりに、何となく扱うクセが付いてしまうと、知らぬ間に、人生のスパンもいい加減に考えるようになります。
何となく、
「こんなもんかな、自分の人生は」
と、そう考えることがさも大人の証であるかのように思えてきて、
「こういう小さな幸せが本当の幸せだ」
などと、どこかで聞いたようなセリフを免罪符にして、今の自分の人生に「全肯定」という名の目隠しをしてしまう。
結局、時間に対する考え方があやふやなばっかりに、自分の人生までもあやふやにしてしまうのですね。
あやふやとはどういうことか?
それはとどのつまり、
時間を長いスパンで考える訓練をしていない
ということに尽きると思います。
時間を短いスパンでしか考えられないということは、時間の近眼になっているということ。
時間を短いスパンでしか考えられないから、「今が良ければいいや」と考えがちになる。
今が良ければいいということは、時間の肥満になっているということ。
つまり、時間の食べ過ぎなのです。
(つづく)
【避けられない人間関係って?】
僕などは心がもの凄く弱いタイプなので、何かしら人間関係でひっかかりがあるとたいてい夜グッスリ眠れなくなってしまいます。
なので、人間関係をグズグズさせないように、数年前からある態度で生活に臨んだのですね。
それは、あらかじめ「嫌われても別にいいや」と思いながら日々を送ることにしたのです。
以前のコラム「ネットとの付き合い方」でも書きましたが、人って知らぬ間に、嫌われないようにすることに心血を注ぎすぎてるんですよね。それが人間の性でもあるのでしょう。
とまあ、そう思うようになって数年経ちますが、結論から言えば、非常に効果的でした。
朝起きて一日を始めるのが楽しくなるのです。
それって何かイイでしょ?
—
「どうしても避けられない人間関係」って、肉親でもない限りそんな関係はないと思うのですが、なかなかそうもいかないのは何故でしょうか。
この国では特に、人と人との馴れ合いで成り立っているところがありますから、何とも離れがたいこともあります。
同じ業界に長くいれば、また別の機会に顔を合わせたりもしますからね。
それらを考慮に入れたとしても、「避けられない人間関係」っていうのは結局のところ、避けることによって生じるリスクを自分自身が負いたくないだけなんですよね。
つまり自分自身が何かを守りたいだけ。
何となく収入のことを考えたり。
何となく周りの評判を考えたり。
何となく生活しづらくなるんじゃないかと不安になったり。
何となく老後のことまで考えたり。
もちろんこういう事を考えるのは人情ですし、僕もしょっちゅう考えてます。
でも、人間関係が崩れたからって、自分の生活が脅かされるなんてことは殆どないのですよ。
それは見えない悪魔を怖がるようなもの。
リスクを取るのが怖いから、ズルズルと人間関係を断ち切れずに、嫌われるのを怖がってしまう。
—
職場の上司であれば、職場を変えれば良い。
部活の先輩であれば、部活を辞めれば良い。
ネット上の繋がりであれば、アカウントを変えれば良い。
親友であれば、たぶんその人は親友じゃない。
こういう考え方はリスキーであることは確かです。
でも、リスクを回避しているうちに結局はだんだんと「自分は自分の人生を生きている」ということを忘れてしまう。
僕はその方がよほどリスキーだなと思うのです。
—
たとえ今の生活の中で突然、人間関係を断ち切ることが出来なくても、
「いつでも孤独になってやる」
「ひとり上等!」
という覚悟は常に必要だなと思います。
その覚悟さえあれば、実は人間関係もグズグズにならずに済むんですよね。不思議なことに。
「この人間関係を断ち切るんだ」と思い切ることができれば、世の中の薄皮が一枚剥がれたように自分の人生を生きることができるし、それがひいては、毎日を気持ち良く生活する事に繋がるなあ、と実感してます。
【地方空港の使い方】
最近よく問題になっている「地方空港の作り過ぎ」。
日本の空港って102もあるのですねー。都道府県の数の2倍以上もある。確かにそれは作りすぎだわ。
もちろん背景に沢山の問題があるとは思うし、マスコミも「誰々のせいだ」というキャンペーンは張るけれど、
「作っちゃったものをどうするか?」
については何の知恵も聞こえてこない。
別のニュース番組では、連休や大雪での交通渋滞情報。
東名高速の渋滞で並んでいるのはほとんどトラック。
渋滞の大きな理由は運送業のトラックなんだねー。
トラック輸送が減ったら高速道路の渋滞は激減するんだろうなあ、としみじみ。
あれ・・・?
そしたら道路で運んでいる荷物を空輸すればいいんじゃないの?
各運送会社が専用の飛行機を購入して、地方空港から地方空港へ空輸すればそれで済むんじゃないかな。
わざわざ高速道路で東京を通り過ぎる必要も無いから、首都圏のトラック数も激減。
地方空港も、旅客とは別に貨物での収入が見込めるし、その方が収入的には比較的安定するはず。
何の飛行機も飛ばない飛行場よりよっぽど良いと思うんだよね。
「不景気で貸し出し先が無い」とこぼす銀行は、運送会社に飛行機購入資金を貸し出せば良い。
飛行機の購入が高ければリースでも良い。
日本郵政も相乗りして、国が資金を貸し出しても良い。
郵政の資金がどうのこうの言うのなら、まさにこういう部分にお金を出せば良いんだよなあ。郵便事業とも関連が深いんだから。
引っ越し会社や建築会社と組んでも良さそう。
とにかく、長距離の荷物はどんどん空輸させる。
トラックの運転手さん達の仕事は超長距離ではなくなって、地元と空港とを運搬する短距離の運転になる。または空港での搬入搬出に従事しても良いかも。
いずれにしても過酷な長距離運転の過労や睡眠不足が無くなるはず。
たぶん大人の事情が100万個くらいあって実現できないんだろうけど、日本の運送会社って意外にフットワーク軽いから、やろうと思えばできる気がする。
みんなでブーブー言うよりもとりあえずやってみればいいのになあ。
【本当に音楽でないと伝わらないのか】
(つづき)
さて、もうひとつの「音楽を通して何かを伝えたい」場合。
たとえば歌などは歌詞もあるのでこちらになりますよね。
でも、いくらメッセージがあるからと言っても、何でもかんでも音楽に乗せれば良いってものでもありません。陳腐なメッセージを乗せた曲は聴き手の時間を奪う時間泥棒でしかありません。
大切なのは、
その伝えたいことを伝えるのに、音楽でなくてはならないのか?
その伝えたいことは、音楽以外の方が伝わりやすいのではないか?
という点を、まずはよく吟味してみることです。
「音楽そのものを伝えたい」場合の純粋な音世界とは違って、こころ、身体、環境、経験、知恵、良心、願望、欲、愛情、、、とにかく自分自身の人間性を総動員して吟味しなければなりません。
●安易にエコや戦争反対を歌うよりも、NGOボランティアに入って活動した方がよほど世の中に広く深く伝えることができるかも知れません。
●政治や社会問題を歌うよりも、政治家になって選挙に立候補した方がよほど分かりやすい活動かも知れません。
●自分の思いをまわりくどく歌に乗せるよりも、毎日のブログで同じことを書いた方がストレートに伝わるかも知れません。
●大きな愛を仰々しく歌う時間を使って、身近にいる大切な人に「ありがとう」と言ってあげる方が愛を広めるかも知れません。
本当に音楽でないと伝わらないのか?
を、厳しく自己批判することが大切なのですね。
その吟味を経てはじめて、音楽に乗せて何を伝えれば良いのかが自分の中でハッキリしてきます。
そうやって「音楽に乗せて伝えることが最もよく伝わるはずだ」という確信が持てた時に、初めて筆を動かせば良いのです。
というよりも、もうそこまで吟味ができた段階ならば必然的に、楽曲は8割がた完成しているようなものです。あとは筆が勝手に動いてゆくのですね。
音楽とメッセージが溶かし込まれるように一体になれば、それはもう立派に、
「音楽でなければ伝えられないこと」
ですよね。
この吟味プロセスを忘れなければ、音楽を作る時に「出来ない・・・(T_T)」などと悩むということはほぼ100%無くなります。
作るか作らないかをよく考えて、作ると決まったらほぼ自動筆記状態。
もし制作中に筆が止まったり、スランプ状態に陥ることがあったとすればそれは、
「音楽以外のメッセージを、わざわざ無理に音楽に乗せようとしている」
のかも知れません。
音楽でないと伝わらないことを伝える
これこそが、音楽「で」何かを伝えたい場合の生命線なのですね。
【音楽で伝えたいのか。音楽を伝えたいのか。】
前回は、初期衝動によって作品の中に子供の落書きのような本質を残すことが大切と書きました。
では、本当の子供の落書きとどこが決定的に違うのでしょうか。
それは、音楽を作ったり奏でたりする時に、その楽曲によって、
「音楽を通して何かを伝えたいのか?」
それとも、
「音楽そのものを伝えたいのか?」
をまずハッキリさせる、ということですね。
音楽「で」伝えたいのか?
音楽「を」伝えたいのか?
ここをハッキリさせないと、焦点の定まらないものになってしまいます。
焦点が定まらなくては、どんなに上手なデコレーションが施してあったとしても、実質は子供の落書きと同じレベルになってしまいます。
—
「音楽そのものを伝えたい」場合は、まさに文字通り「音を楽しみ、音を楽しませる」という点が大切ですね。
政治信条、宗教的要素、社会問題、人間関係とはまったく無縁の、ただただ純粋な音世界。
ストーリー性などの標題は副次的に感じても良いけれど、あくまでも絶対音楽の世界。
音楽が数学や建築に似ているのは、この絶対音楽の世界があるからかも知れませんね。
この純粋な音世界を作るのに、作者が人間的にどういう人なのか、
良い人なのか、
ろくでなしなのか、
礼儀正しい人なのか、
食生活が乱れているのか、
性生活が乱れているのか、
病気なのか、
こういうのは一切関係ありませんね。
もうただただ純粋な音楽の世界が良ければ、作者がどうあろうとも無関係ということです。
作者が人間である必要すらないかも知れません。
コンピューターでも偶然でも不特定多数でも良いのかも知れません。
人柄は良いけれど腕がイマイチな建築家にマイホームを頼まないのと同じで、音世界が良ければ人間性は度外視しても良いと思っています。
そのかわり、耳の鋭敏さ、研ぎ澄まされた感覚、世界の構築能力、イメージ力、色彩感覚、自分自身の能力を総動員して、徹底的に音世界だけで伝え尽くさないといけません。
陳腐な音世界しか提示できないのであれば、作らない方がマシです。
「音楽そのものを伝えたい場合」は人間性よりも能力を総動員することが大切なのですね。
その一方で、「音楽を通して何かを伝えたい場合」には、人間性を総動員した自己批判と吟味が必要なのです。
(つづく)
【初期衝動】
音楽を作る時に一番大切なのは、
「初期衝動を最後まで大切にする」
ということです。
初期衝動が失われた瞬間にその作品は伝えたいことが無くなる、つまり、作り続ける意味が無くなるのだ、ということを肝に銘じておかなければなりません。
それはどういうことかと言えば、
「たとえ完成間近の楽曲だとしても、作ることを中断する勇気を持つ」
ということでもあります。
これがなかなか難しいのですね。
自分名義の楽曲であればまだしも、お仕事として発注された楽曲などでは至難の業。
発注元の意向、〆切、予算などという無粋なハードルが幾重にも連なっているために、途中のものを中断してゼロから作り直そうなど言語道断であるとお叱りを受けてしまう恐れがあるのですね。
けれど、自分が骨の髄まで納得ずくのものを作りたい、作らねばならないという使命感は一番大切にしたい。
ではどうするか?
実は簡単なことだったりします。
もともとそういう葛藤を生むような状況を作り出さないようにすれば良いのですね。
具体的には、出来るかぎり早い時点で、初期衝動に任せて大まかなラフを作ってしまうということです。それこそ半日から1日で。
その段階では、細かい部分や全体のカラーや統一感などは完全に無視する。
どんなにちゃちなものでも、
「これは全然ラフなんだからね、自分よ。」
「完成図はこんなもんじゃないけど、今はこれで良いのだよ、自分よ。」
と自分に言い聞かせて、細かく手を入れたい欲を抑えながらまず全体像を作ってしまう。
後で大幅に直すかも知れないとか、これは本当に良い仕上がりになるのだろうかとか、そういうことは一切考えず、ただただ子供の落書きのようにざーーーーっと、とりあえず最後まで作り切ってしまう。
そうして短い時間で作ったラフには、必ず初期衝動の痕跡が残ります。
その痕跡こそが、その楽曲の肝なのですね。
作りきらずに一日でも置いてしまうと、この初期衝動自体が一晩寝かされて発酵されてしまい、妙な「うま味」みたいなものが出てしまいます。
それがまた熟成された美味しいアイデアに感じるものだから、昨日作りかけて途中だったラフにペタペタ継ぎ接ぎしてしまいがち。
でも、そんなことをしてしまえば、たちどころにその楽曲の肝が損なわれてしまいます。
何が言いたいのか焦点がぼやけてしまい、結局のところ「昨日のチャーハンと今日のチャーハンを混ぜたような、ピンぼけの楽曲」になってしまうのです。
万一そうなった場合にも、早い段階で進めてさえいれば、ゼロから作り直す時間的余裕があるわけですから、ゼロから作り直す勇気を持ちやすい。
ごちゃまぜチャーハンになった楽曲は即座にボツにして、1日目に作ったチャーハンのラフは、それ単体で別の機会にあらためて作り直せば良い。
初期衝動のままその日じゅうにラフを作りきってしまえば、〆切を守るのではなく、〆切に攻めていく感覚をつかむことができます。
〆切に攻めていく感覚を掴めれば、その楽曲はもう自分のものになっていると言えるでしょう。
〆切や予算や大人の事情が自分の初期衝動に勝ってしまう、そんなセミの抜け殻のような楽曲を世に出すことは「騒音公害」だという自覚を持つことが大切なのですね。
【のたり松太郎】
好きなマンガがあると何周も何周も読んでしまう僕ですが、この「のたり松太郎」もそう。
作者はちばてつや。「あしたのジョー」「あした天気になあれ」を描いた方ですね。もちろんこの2作品も読破しましたが、「のたり松太郎」はもう別格の面白さ。
とにかく主人公の坂口松太郎がとんでもない。
乱暴者で自分勝手で怪力の持ち主。
よく人を殺さないで済んでる、と言うようなエピソード連発です。もちろんマンガだからこそなのですが、それにしてもよくもここまで乱暴な男を描けるものだと感心してしまいます。
「気が荒くて力持ち」って・・・人間として一番近寄りたくないタイプ。
僕なんてたぶん2秒で絞め殺されちゃいます。
また、タイトルに「のたり」とついているだけあって、とにかく怠け者。
マンガで怠け者を描くとこんなにもダラダラと冗長になるのか、というようなページの無駄遣いっぷり。
何ページ進んでもこの男は稽古すらせず、1話分まるまる呑気に釣りなどしているのです。30巻目に至っては、1巻まるまるサボって競馬にうつつを抜かしたりするし。
ここまで来ると、主人公がサボってるんだか作者がサボってるんだか分かりません。
そのうえ、ときどき突発的に、相撲とはまったく関係ないストーリーで松太郎が大暴れしたりするので、とにかく読み手を混乱させるマンガであることは確かです。
でもね、セリフにもコマにも描いてはいないのですが、最後まで読んで分かったことがありました。
それは、彼が全36巻中ほんの数回だけ見せた頑張りが、すべて他人のためだったということ。
一度読んだだけでは分からないほど、あまりにもさりげない描写なのです。
そういうさりげない漫画、僕は大好きなのですよ。
【CUBE】
10年以上前に観た「CUBE」をもう一度観なおしてみました。
ちょうど当時チラホラ日の目を見るようになっていた低予算映画。壁の色を変えていくだけでほとんど1カ所での撮影。それでもこれだけの映画が出来るんだから、やっぱりモノ作りってのはお金かければ良いってものじゃないと実感。
作者は「極限の状況」と「登場人物のプロフィール」だけを用意して、あとは投げ込まれた個々のキャラクターの動きに任せたかのような放り出しっぷり。よくマンガ家や小説家が「キャラクターがひとりでに動き出す」という表現をする場合がありますが、この映画はあえてそれを試みてる感じ。
ホラーっぽさやドギツい表現を採ってはいるけれど、根底にあるテーマは極限状況での人間性。
最初に観た10年前と現在で日本の状況も相当変わって、お金のためなら何でもする人、自分さえ良ければ何でもする人が増えちゃいました。
10年前は実生活での極限状況にリアリティなんてありませんでしたし、日本は経済大国だっていう共通認識にあぐらをかいてましたね、日本人全員。
でも、少し景気が悪くなっただけでこの騒ぎ。
みんな不景気のせいにして、自分たちひとりひとりが犯したはずのミスについては思考停止。
1億人が1人の総理大臣に責任転嫁するものだから、総理大臣もイヤになってコロコロ辞めちゃう。
辞めた総理には「途中で辞めた」と罵声を浴びせ、辞めなきゃ辞めないで「辞めろ」の大合唱。とても人間の行為とは思えません。
今思うのは、人間ってのは、極限状況まで行かなくとも十分ケダモノになってしまうってこと。今の日本人のように、ね。
僕には今の日本人は単なるケダモノに見えます。
草食系?
それは草食動物に失礼だね。
今この映画を観ると、何だかCUBEに閉じ込められているのは反省していない日本人なのではないか、とさえ思えます。
お涙頂戴の商業映画よりもよっぽど、人間の良心について考えさせられます。
あ、ちなみにリメイク版ではなくて、最初の低予算版がイイですよ。
リメイク版は・・・なので。
【情報アレルギー対策(3) 嫌われてもいい】
(つづき)
情報アレルギー対策の3つ目が、3つの中で一番難しい【他人に嫌われることを恐れないこと。】
情報社会って、単にいろんな情報が世にあふれるだけじゃなくて、自分に関係する情報や返信もあふれるってことなのですね。
「炎上」なんてネットが無ければあり得なかった現象ですし。
そのぶん、人から好かれたり嫌われたりすることも、リアルな生活とは比べものにならないほど頻繁に起こってしまいます。
ですから、
実生活上での「好かれる」「嫌われる」と、
情報社会上での「好かれる」「嫌われる」は、
実は全然意味が違う!
ということを、自分に言い聞かせておくのも大切ですね。
でも、ひとことで「嫌われることを恐れない」と言っても、これがまたなかなか出来ない。
誰にも相手にされないのもキツイけど、誰かに嫌われるっていうのもこれまたキツイ。
それをそのまま受け容れるのって本当に難しいことです。
そういう時に僕が採っている方法は、
「嫌われた人を、逆にこちらから徹底的に避ける」
って方法。これが効果てきめん。
ただただ心の中でその人が、まるで世の中に存在しないように振る舞う。
ふと噂や話に出ても、まったく反応せずに一言もコメントしないww。
そうすると自分の中でその人が、
「嫌われてる人」
ではなくて、
「こっちから避けてる人」
にすり替わる。
なんだかとても痛快な錯覚。
人間なんて単純なもので、自分の方が積極的に避けてると、そのうち本当に存在を忘れちゃうんです。
そうすると、あんなに怖かったはずの「嫌われる」ということが、意外と大したことなかったことが分かる。
みんな情報アレルギーのしわざ。
単なるシンドロームにすぎないのです。
だって、本当はみんな、直接会えば魅力的な人に決まってるもん。
—
情報って本当は人間のためのもの。
なのに、情報のために人間が動き回ってる感じがしちゃいますよね、最近。
まるで情報の使い走り。
でも本来は、あくまでも情報が人間の使い走りなのです。
人間は情報なんかよりも断然エライのです。
なのに、人間さまの奴隷のはずの情報に操られ、ちょっとした言葉のあやとか単語の解釈の違いで全人格を否定したり、かと思えば神のように崇めたり。思考回路がまるでデジタル。
人間はデジタルではないのだから、感覚を「+」「ー」かの二者択一にする必要は無いですよね。
情報アレルギーは風邪のようにすぐに身体に襲いかかってきますが、情報やネットに振り回されず、ネット上でも人間らしいコミュニケーションを取っていればすぐに完治するものでもあるのですよね。
マイペースで、自分らしく生きていくのが一番。
【情報アレルギー対策(2) 無関心は当然】
(つづき)
情報アレルギーの予防対策2つ目が、【他人の無関心を当然だと思うこと。】
ネットでは「情報を受け取る」と同じくらい「情報を発信する」ことも、あまりに容易にできてしまいます。
ってことは、自分と同じように「何かを伝えたい」と思ってる人もたくさんいるわけですね。
それだけじゃなく、大したことじゃない誰かの独り言と、自分がすごく伝えたい大切なことが、まったく同じ土俵に並んでしまうのです。
ツイッターなんてその最たるものですね。
なにせ、
「人生って何だろう?」
のすぐ後に
「超眠いなう」
とか平気で続いちゃうんですから。
これが意外と、気づかぬうちにボディブローのように心にダメージを与えたりします。
結構ちゃんと伝えようとしたのに、誰かのマヌケな写真画像に話題をさらわれたり(えてしてシリアスな話題はマヌケな写真1枚に負けることが多い)。
昔自分が書いた時にはスルーされたのに、同じことを後になって超有名人が書いて大反響になってたり。
他人事だと笑っちゃうけど自分事だと笑えない、みたいなこの種のダメージは意外にボディに来ます。
ネットが無かった時には、住む世界が違う人同士が同じ土俵に上がることなんて無かったのですから、これはもう完全にネットの影響です。
「そんなに肩肘張らずに、気楽にやろうよ」
と思うときもあります。
でも何かを伝えようとする時って、たいてい気楽じゃないものなんですよね。
また、そういう気楽じゃない時に限ってスルーされるんですね、これが。
だから、こういうのはもう自分ではコントロールできない、いわばお天気みたいなものだと考えることが大切ですね。
「ああ、雨が降ったのか」
くらい当然のことと考えておけば、必要以上にクヨクヨしなくて済みます。
他人が読んでくれることを前提に書きながら、
他人が読まないことを前提に発表する。
なんだか禅問答のように聞こえますが、いざそういう姿勢で何かを伝えてみると、ものすごく心が安寧へと導かれます。
気分を楽にする逆説。
これって実は、ネットや情報社会とは無関係に、表現の基本でもありますね。
僕が音楽を作る時のモットーだったりもします。
(つづく)
【情報アレルギー対策(1) マイペース】
最近は花粉からハウスダスト、果ては人混みアレルギーと色んなアレルギーがありますが、情報アレルギー体質も、思いのほか患ってる人が多いのかも知れません。
僕なんてば本当に情報に心身をやられるタイプ。
これを予防・改善するには、3つの方法しかないと思ってます。
1つ目が、【自分のペースを信じること。】
ふと見渡してみると、あれだけ遅いと思ってた自分のペースよりももっと遅い人って世の中にたくさんいるのですよね。しかもそういう人に限って割と魅力的な人だったりして。
逆に、アンテナ高い人ってどこか信用できなかったりするし。
情報をたくさん持ってたり、情報を早く知ってたりしても、その人が偉いわけでも何でもなくて。
逆に何も知らない人のさりげない一言がグサリと心をえぐるほど感動することも多くて。
そう考えると、ペースの速い遅いが人間的魅力と必ずしも比例していない、否、もしかしたらむしろ反比例かも知れない、と思えたりします。
「生き馬の目を抜く情報戦争の中で生き残るには?」
なんて肩肘はって考える必要ないのですね。
どんなに遅いペースでも死ぬことはないですし。
マイペース。好きなコトバです。
(つづく)
【情報アレルギー】
ぼーっと生きてる間に、世の中のスピードと情報量は大変なものになりましたね。
ときどき世の中の流れに全くついていけない瞬間があるのですが(というか結構多い)、そのたびに何だか人として世間からNGを出された気分になります。
もちろん実際に誰かにダメ出しされている訳ではないのですが、そういう被害妄想にかられた気分の時に限って、その疎外感を穴埋めするかのようにプライド=自尊心が必要以上に強くなっちゃうのですね。まるでアレルギー体質の過剰反応のように。
「プライド」なんて聞こえは良いですが、要はカッコ良く見せたい見栄ですね。これが強くなっちゃう。見栄ホルモンの過剰分泌です。
そうなるともう大変。
心身ともに「他人にカッコ良く見せたい」という願望が支配してしまって、ただでさえ速い社会のスピードや多すぎる情報にもスマートに対処できなくなってしまうのですね。
情報過多によって見栄ホルモンバランスに異常をきたしてしまう、これぞ情報アレルギー体質。
ひとたびこの情報アレルギー体質になると、欲しい情報ひとつひとつに過剰反応しちゃう。
情報に接するたび、心にくしゃみが出るような情報花粉症状態に。
「あーもうこんなスゴイ人がいるなんて自分はダメだ」
とか、
「この前までそうでもなかったあの人が今ではこんなにスゴくなっちゃった。焦る!」
とか、
「同い年なのにこの人はこんなことが出来るんだ、それに比べて自分は…」
とか、
まあとにかく、情報にいちいちネガティブ反応しちゃったりして。
何か調べものをしていたはずなのに、結局何を調べてたんだかよく分からなくなっちゃったりするんですよね。
「情報に踊らされる」なんて生易しいものじゃない。
「情報に神経をやられている」って表現の方が感覚的に合う感じ。
こんな人間疎外の状況は一刻も早く改善しなければなりません。
が!
だからって僕たちはもう、ネット社会や情報社会から逃れられることは難しい環境にあるのですよね。
ならばこちらから情報やネットに向かう姿勢を変えれば良いのだ!
ということで、情報アレルギー体質を改善する方法を考えてみたいと思います。
(つづく)
【電子書籍】
小説以外の本ならば、何となく週に2〜3冊くらいのペースで読んでます。
寝る前とか、仕事サボってる時とかに。
僕のばあい自宅で仕事をすることが多いので、通勤時間というのがほとんど無いんですね。毎週木曜のSuonoDolceに行く時か、スタジオでレコーディングをする時くらい。
だから仕事の合間などに本を読むには、寝るかサボるかしないといけないのです。そういう事情もあって仕方なく仕事をサボることにしてるんですよね。
本というのはこれまた年齢とともにどんどん増えていくもので。溢れかえる本棚を見るたびに自分がどれほど齢を重ねたかを思い知らされるようで、精神衛生上にも何とかならないものかと考えていたのですよ。
そこに降って湧いた昨年からの電子書籍ブーム到来。
僕も現在100冊/月のペースで本棚の本を片っ端からPDF化して、本棚のアンチエイジングを図っています。
おかげで最近はリアル本棚がスッキリ。
本も音楽も最近は完全にデータ化されるのが主流ですね。これからもその傾向はドンドン強まるのでしょう。
確かに「読む」とか「聴く」だけが目的のものであれば、僕もそれで全然OKだと思ってる派なのですが、
「触れる」
とか
「愛でる」
ってことになると話は別なのです。
そこには、懐かしさとか、幼児体験とか、肌触りとか、自分の生きてきた記憶の証が伴うのですよね。これは人それぞれの感情に根ざしているから、データではどうすることも出来ないのですね。
これから先の時代になって、脳波すらコントロールできるようになって、触覚や嗅覚さえも疑似体験できる時代が来るようになるとは思いますが、
「自分自身が生きてきた証」
としての記憶や肌触りはずっと大事にしたいんですよね。
ちなみに、絶対に電子書籍化できない、僕の記憶の主たちw
【CM制作(その3)裏メッセージ】
3回に渡って書いてきた「2時間での60秒CM制作」エピソードですが、最後にこのCMの音に込めた僕の思いを少しばかり。
ふだん僕は、自分の作った音楽についてあれこれ言うことは少ないのですが、今回のCM制作は楽曲としてでなく、
「60秒のサウンド・ドラマ」
として作ったつもりなので、むしろ制作に込めた今この瞬間の思いを書き留めておくことが、のちのち何か「新しく面白いこと」につながる気がしてます。
今回のCMのオモテのコンセプト「20年後の今日」とは別に、音楽だけに隠れたメッセージを込めてみました。
メインのメロディはこれ。バイオリン譜。
このメロディ。
実は「ドレミファソラシド」と対応する「ハニホヘトイロハ」を組み合わせて、
「空へ空へと、走れ。」
という隠しメッセージを込めました。
音符に当てはめるとこんな感じ。
今年成人式を迎える人への僕からのメッセージ。
20歳だけでなく、頑張ってるすべての日本人へのメッセージ。
そして、20年後の自分自身へのメッセージ。
伝わるといいな。
そして僕も、今年から少なくとも20年、日本の明るい未来のために頑張ることにします☆
【CM制作(その2)本番当日】
そしていよいよ本番の生放送☆
J-wave内は信じられないくらいの慌ただしさ!
さながら報道センターのよう。
僕は、本番オンエアのスタジオとは別のスタジオに入り、テキサス2バーガーを食べるヒマもなくサウンドチェック。
さっそくバイオリン、チェロ、ギターにスタジオ入りして頂いて、実際に生放送中にメロディモチーフを披露。
六本木の夜景を見る余裕もない練習風景。
その合間にナレーション録音。藤本さんの細かなディレクションに対応するナレーターのお二人。そしてオーウェン真樹さんのロゴ収録。
しかも僕は一時抜けて別スタジオにて番組出演。クリスペプラー氏とトーク。
ニヤニヤしてる場合じゃないけど、ニヤニヤ。
録音スタジオに帰ってくると・・・
この時点ですでに1時間20分経過・・・キャー!!!
すべてのナレーション素材データをMacに入れて、曲尺と合わせる怒濤の作業。こんな集中したの今年初めて。
「集中初めだなあ」なんてしみじみしてるヒマもなく、大量の波形とにらめっこ。
この段階になると、僕以外の人には何やってるんだか分からない作業。
もうすでにこの段階では、すべての音が音符でなくて波形データになってるから、僕の脳内譜面だけを頼りにガシガシ波形編集していく。
そして再生!
うまくハマってる!感動的だ!
完成〜〜
・・・あれ?
・・・2秒長い
・・・(-_-;;)
・・・
ヤバイ!!
頭の中フル回転で、曲尺をつめられる箇所を探す。
こういう時って脳は面白いね。60秒の曲を頭の中で5秒で再生できるようになるの。
猛スピード脳内再生を何度も繰り返し、メロディのスキマを探す。
ここだ!
1小節を大胆にカット!
そして、おそるおそる再生。
・・・
・・・
・・・
59秒59!!!!!
奇跡!素晴らしい!
完成〜!!!!!
パチパチパチパチ!!!
ふと時間に目をやると、、
なんと〆切2分前でした。ふぅぅ。。。
完成した瞬間。全員本気で喜んでます。特に僕の喜びようったら・・・(-_-;)
ホッとした皆さん方と。
出演者・スタッフの皆さん、
演奏家の皆さん、
ナレーターのお二人、
そして何よりも、応援してくれた皆さん、
本当にありがとうございました!
こういう仕事に巡り会えるってことだけで、僕って幸せ者だなあ、と感じ入りました。
(その3へ続く)
【生放送で60秒CM制作(1)】
昨日は「ラジオ生放送中に60秒CMを一本作ってしまおう」という寿命が1年ほど縮まるような番組に、音楽制作で参加しました。
番組は【J-wave Special McDonald’s TOKYO CREATORS’ LIVE】
MCクリスペプラーさん、制作するCMの総合プロデュースおちまさとさん、コピーライター藤本ヨシカズさん、そして音楽がワタクシ。
「クリエイターズライヴ」と銘打つだけに皆さん超強力な布陣に囲まれ少々恐縮しつつも、いつも通りニヤケ顔で乗り切ってしまえ!と臨みました。
——-
2週間前におちさんから渡されたお題が、成人式にちなんで「20年後の今日」ということだったので、まず20年前のことを考えてみました。
音楽の20年前・・・90年代J-POPかあ。
で、今・・・AK○48かあ。K-POPかあ。
なんか、、、全然進歩してないじゃん。
この20年、日本の音楽業界は音楽よりもお金儲けのことばかり考えて、結局儲からなくなっちゃって、自分たちのせいなのにそれを不景気のせいにしてる。
何か違うぞ?
って思ったのが、最初のとっかかり。
で、今から20年後・・・
・・・それでも僕はこの国に希望を持ちたいなと思ったのです。
20年前から今までの20年間は、確かに拝金主義で心も社会も荒んで、その結果、良心も思いやりも、それらを犠牲にして儲けたはずのお金さえも無くなってしまった。何にも無くなった。
でも、希望だけは持っていたい。
少なくとも僕の作る音楽には希望をたくさん入れておきたい。
これから先20年間で、僕がどれだけの音楽を作れるか分からないけど、
20年後に、
「あの中塚武ってバカがいたから、少しは日本の音楽も捨てたもんじゃないと思えたね」
「あの20年前のJ-waveの無謀な企画の番組、良かったよね」
「ああいうバカな試みをする奴らが、20年前にはいたよね」
と思ってほしい。
無謀な思いつきとか、バカな試みとか、青臭い挑戦心とか、そういうものが希望につながると信じたい。
その一念でこのCM音楽を作ろうと決めました。
——-
シナリオ案は本番の2日ほど前に届きました。
いま20歳の自分に語りかける20年後の自分。
希望を持って青空を走り抜けようとする20歳の自分。
すごく心が打たれるシナリオ。さすがだなあ、藤本さん。
この2人の自分それぞれにメロディのモチーフをつけて、最後には2つのメロディを融合させてひとつのメロディにすると、この2人の対比がさらに映えるかも。
今の20歳の自分=バイオリン
20年後の自分=チェロ
同じ弦楽器なのにトーンの異なる2つの楽器が、メロディを別々に奏でて、最後には1つのメロディに。そうなったら素敵だなあ。
さっそく曲を書いて、本番の録音に臨みました。
(その2へ続く)
【デジタルカメラ】
生まれてこのかたカメラってものは撮るのも撮られるのも苦手で、渋谷系おしゃれさん必携アイテムみたいなイメージしか無かったのですよ。
「何でもカメラに収めやがって。親にもらった二つの眼で見やがれ!」
と、訳の分からぬ反抗心を抱いていたのですね。
そんなカメラ嫌いの僕を変えたのはiPhoneの写真加工アプリでした。
撮った写真をその場で好きな色や形に加工できる!これは面白い!
そっか、デジカメはこんなに面白いことが出来るんだ、と今更ながら気づいた超文明人のワタクシ。
一度ハマり出すと脇目も振らず夢中になってしまうのが僕の良いところ。
そしてすぐに過去の非を認めるのも僕の良いところ。
カメラのことバカにしてスミマセン。
渋谷系の皆さまも小馬鹿にしてスミマセン。
今度僕も歌詞にカメラ使いますので許して下さい。
というわけで、先日、人生初めてのデジカメを持って鎌倉に初詣に行ってきました。
いざ写真を撮り始めると、いきなり立ち止まったり座り込んだり、他人の迷惑になるような姿勢を平気でとってしまいますね。タクシーの車線変更のような迷惑ぶりに反省。
久方ぶりに行ったら・・・そうだ、隠れ銀杏が倒れたんだっけ!
でももう新しい幹が出てきてるんだね。
でもやっぱり加工できるから面白いんだな。
撮影そのものよりも加工が好き。「三丁目の夕日」風アレンジ。
【ことよろ2011】
どもども。中塚武です。今年もよろしくね。
ここに登場するのは久々なのですが、昨年のTwitterマイブームもあって、今年からは自分のホームページも充実させようと決意したのです。
今まではホームページじゃなくて家出ページでしたからね。
あれ?
そんなようなことを一昨年も書いた記憶が・・・
昨年などは決意すらしなかった記憶が・・・
いやいや、すぐに過去と訣別できるのが僕の良いところ。
今年は元旦からこのホームページで、いよいよ新曲の無料配信コーナー「TAKESHI LAB」を開設しましたよ。
出来たてほやほやの新曲を完成直後に配信してしまおうという、町のパン屋さんのような試みです。
マジで出来たてなんだよね、これが。
記念すべき第一回配信曲「月を見上げてた」なんて、完成したの大晦日の夜だからね。それで1日の0時に配信。曲から湯気がぽっかぽか出てたよ。
新曲はこれからも定期的にアップしていくよー。
ただ、システム上1曲のみのアップなので、次の新曲を配信する時に以前の配信曲は消えてしまいます。なるべく早めに吸い取ってね☆
ってことで、今年はこのホームページで会う機会をたくさん増やします。
近いうちこのコラムでもコメントもつけられるようにするつもり。
もちろんリプもするので、曲の感想その他くだらないコメントお待ちしてます。
ではでは、今年もよろしくね〜。