僕も生まれてから早32年経っておりますが、さぞや大人になったかと思いきや、図体ばかり大きくなって脳の回路はガキのままですね。自分が子供の頃の30歳なんてものすごく年上のオジサンだったよなあ。それが今や自分が、、、これ以上考えるのはやめておきます。
音楽を生業にして5年経ちますが、この職業に携わってから自分が少しずつ精神的に若返っている気がしてます。単に精神年齢が退行してるだけだったりして。まあ確かに5年前も幼稚な考えしかできない男だったことは間違いないのですが。自分が夢中になれることが一つでもあれば、どんなに年老いてもピュアな青春時代を送ることができるものなんだな、と実感しとります。
この映画の主人公ガープ。彼はすごくピュア。ピュアな男のカッコ悪さ、弱さ、もろさ、ピュアな故にもたらされるあまりに大きな悲哀がスクリーンからこれでもかと迫ってきて、男として息苦しくなる場面が続きます。作品中もっとも不幸な場面ではオリジナル小説にも書かれていない描写もされていて、もうあまりに辛すぎて二度と見られない。
それでも彼は全てを許してしまうんだよなあ。なぜなら自分が弱い男だと自覚しているから。彼は天国でも全てを許していることでしょう。弱い自分を認められるだけの純粋さを持てる男が、実は一番カッコイイ男だと思う。
ガープの世界
Steph Pockets / Flowers
偉大だったり有名だったりする親の子供って僕には分からないような苦労があるんだろうなあ、なんて、この前深夜番組見ててふと思いました。
日本で一番エライ人の息子ってだけで深夜のトーク番組を任されたりして、これはこれで自分自身の能力以上のものを期待されてしまったりする訳で、ゲストの人からも「お父様によろしく」なんて言われて「あれ?自分はスルー?」みたいなシチュエーションもたくさんあるだろうし。自分の力だけで成し遂げたはずの事も「やっぱり血は争えないねえ」なんて見られたりして、結局のところ等身大に判断されることがなかなか難しいだろうなあ。
このSteph Pocketsも、小さい頃からそんな周囲の声やプレッシャーを受けまくって音楽を作っているに違いない。なのにそんなプレッシャーを全く感じさせない強靱なsoul musicを作っていて大好き。音楽の良さにそんな下らない話題性は不要なんだよね。しかも2ndはきっちり横顔ジャケ。
2世ミュージシャンのすごい部分は「血筋」や「恵まれた環境」なんかではなくて「普通の人では考えられないプレッシャーへの耐性」なんじゃないかな。「横浜の下町の惣菜屋の次男坊」という、音楽をやるにあたって全くノンプレッシャーでいられる僕はなんて幸せ者なのでしょう。
音楽メディア
最近、音楽を聴く時はほとんどiPodかPower Bookからしか聴いていないことに気づきました。ちょっと前まではCDケースにCD何枚か入れてCDウォークマンと一緒に持ち歩いていたのに、今ではCDすらも「かさばるなあ」なんて思っちゃったり。すでに「コンパクト」ディスクとは思えなくなってますね。それどころか最近では、CDからiPodに読み込むひと手間ですら面倒になってます。もともと面倒くさがりの横着者なので、こういう便利な時代になると助かっちゃいます。こうやって時代はだんだんとCDから遠ざかって、来年の今頃にはCDなんかもう買わなくなって、ほとんどダウンロードかフラッシュメモリで音楽を買うことになっているのかも知れないなあ。
ジャケットとか歌詞カードといったアートワークのあり方も激変しそうですね。ちょっとした動画PVが同時購入できるのが当たり前になったり。音楽だけのダウンロードと動画込みのダウンロードだと値段が少し違ったりしてね。
そうなると、音楽を作る側からも、初めから音楽と映像のワンセットが前提の作り方をする人も出てくるでしょうね。ミュージシャンとCGデザイナーのコラボレーションとか、もっと踏み込んでデザイナーの作品に音楽がついてたりね。僕も何人か大好きな映像作家の方がいるので、そういう面々と一緒に何か作ろうかな、と企んでいたりもします。
でも、たとえそんな時代になっても、音楽だけで人に伝えたいことや、人に伝えたいという気持ちは今までと変わりないし、僕の音楽の作り方も作る姿勢も、時代によって変えていくことはしないだろうなあ。メディアがどう変わろうとも、技術が飛躍的に進歩しても、人のココロを動かせるのは人のココロだけですからね。
ブルース・リー
僕は小さい頃からブルース・リーが大好きでしてね。あまりに小さい頃から好きだったので、漢字がうっすらと読めるようになる小学2年生くらいまでは「ブルー・スリー」だと勘違いしていて、「何でルパンは3世なのにブルーはスリーと呼ぶのだろう?」と悩んでいたほどです。「ブルース」のはずの略称を「ブルー」と呼んでいたマニアは僕くらいでしょう。
ブルース・リー出演の映画も、香港帰国後時代はもちろん、子役時代やアメリカ時代のテストフィルムばかりか、数多くのそっくりさん映画までも観ました。おそらく「カルトQ」ブルースリー編があれば結構イイトコまで行くんじゃない?なんて自惚れて痛い目を見るタイプのエセマニアを自負しています。
小学校のクラスの友達が僕の家に来て遊んでいる時も、真冬だというのにわざわざ上半身を脱いで黒いスウェットを履いたりして、友達を横目に一人で「燃えよドラゴン」スタイルで遊んでたりしてね。かなり頭悪いです。ヌンチャクだけは驚くほど上達しましたが。
そのままのカッコで普通に遊んでたら母親が帰って来て、一人トップレスで友達とこたつで温まっている僕の姿を見て、何を勘違いしたのか後で呼び出されてね。「あんまり変な遊びをしてはいけません」と真顔で諭されちゃったりして。どんな恥ずかしい勘違いをされたのでしょうか。どうやら母親はどちらかと言うと「萌えよドラゴン」ごっこだと思ったらしいです。それ以来ブルースリーごっこは死亡遊戯スタイルに変えました。といっても単に黄色Tシャツ着ただけですが。
The Giving Tree(大きな木)
「book」と銘打っているくせにマンガのコラムばかり書いて「お前のbookはcomicだけか?」と、僕の知性のほどを勘違いされてしまうので、この辺でそろそろ絵本を紹介します。マンガでも僕にはまだ知的レベルが高すぎて。
この「大きな木」を知ったのは結構遅くて、大学を卒業したての頃でした。初めて一人で読んだ時うかつにも号泣してしまい、もし人前だったら危うく「大人になっても絵本とかで泣いてるキモいフェミニン男」というレッテルを貼られるところでした。
誰でもいつの時代でもそうなのかも知れないけれど、人間同士がお互いを思い合うって本当に難しいですね。その相手のことを考えていたはずなのに、いつの間にか自分のことに置き換えて考えている自分に気づいて「ああやっぱり自分って自己中なのかな?」なんて自問自答してみたりのどうどう巡りです。そういう思いの中でこの本を読み返すたびに「愛すること」は「待つこと」なのかも知れないと、自分の中の焦りが少しだけ消える気がします。
人のことを思うにはまず「他人のことを考えられるだけの自分なんだ」と自分に自信を持てるかどうかが大切かなと。自分の生きる道をしっかり見据えられるだけの自分がいるからこそ、人を許せて、人を待てるのかも知れないですね。
ちなみに僕の場合は、他人が待ち合わせに10分遅刻しただけで待てずに先に行ってしまいます。このままでは「愛が足りず、人を許せず、絵本で泣いてるキモいフェミニン男」になってしまうので反省します。